DVが生むのは反撃じゃなく自己肯定感のなさ 祖父に暴力されたわたしは他人に暴力をふるわない|成宮アイコ

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怒りよりも先にあるもの

港区南青山に、児童相談所と母子シェルターなどの施設が入る「子ども家庭総合支援センター(仮称)」の建設が予定され、さまざまな声があがっています。

テレビでは影響力のあるタレントさんが、「親に暴行されて『キーッ』となってる子が外にボーンと飛び出して、暴力をふるったりカツアゲしたりするかもしれない」といった発言をされました。

その発言を知ったときには、正直、「はあ? まじか…」と思いましたが、生まれ育った環境で感じ方はそれぞれですし、自分の常識がほかの人の常識ではないので、そう思われることもあるのだろうなと一旦は心の中にとどめました。
でも、理不尽な暴力や言葉の暴力をなげかけられたとき、人の心に起こる「怒りよりも先にあるもの」が見逃されているということに焦りと不安がこみあげます。それを、できるだけ感情的にならずに整理するということにだいぶ時間がかかったくらいには、思うことがありました。

傷つくということは反論すら浮かばないということ

この連載でたびたび書かせてもらったように、わたしは生まれてから祖父が亡くなるまでの20年ほど、DV家庭で生活をしていました。

けれど、わたしは、だれかを殴ったことはありません。

罵声を浴びせられたあとは、だまりこんでしまいます。
まずは、傷つくからです。
殴られたあとは、無の状態になってしてしまいます。
まずは、傷つくからです。

性別年齢問わず、ひとは誰でも、ちゃんと傷つきます。

祖父からうけた言葉と力の暴力が生んだのは、まずは、怒りではなく自己肯定感のなさでした。自分は最下位だからという概念が消えず、人間関係がうまくできなくなりました。それは大人になってもゼロにはできず、人からしいたげられること、存在から目をそむけられることがあっても、怒りだけをむけることができません。そうされることが当然、虐げられるであろうことが前提として生きているので、自分がそこにいることに反対をされても、反論をしたり怒って殴りかかることではなく、「ですよね」とすんなり受け入れてしまいます。
だって、自分はそういう立場なのだから。自分はそういう側の人間だから、だから当然、と思ってしまう。そして言葉と気力を失う。

傷つくとは、そういうことなのです。

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自分の存在から目をそむけられる

その祖父が入院をしたときのこと。付き添っていた家族に荷物をとどけに病室に入ったところ、会ったこともない親戚が来ていました。家族への用事がおわって帰ろうとしたわたしに、その女性は少し苛立ちながら、当然という風な顔でわたしの手をとり、「ほら、ちゃんと声をかけてあげて。」と、祖父の手をにぎらせようとしました。

「お前は家族の最下位なんだから」とテレビのリモコンを持って殴りかかってきた祖父の顔が思い出され、病院のベットで寝ている時でもさえも、今起き上がってあの光景が再現されるのでは、と思ってしまい恐怖で近づけないのに。DVの張本人が意識がなく眠っていても、わたしの心は冷えて死んだままなのに。

とっさに、「なにも知らないのに」と声が出てしまいました。
彼女は驚いた顔をしてなにかを言おうとしましたが、力が抜けたようにわたしの手を離したので、そのまま理由も言えず、逃げるように病室から外に出ました。

ほんとうは、その手を強くふりはらうこともできました。そして、祖父からそうされてきたように、その女性に罵声を浴びせることもできました。いかに自分の中に怒りがあるかをぶつけることもできました。
けれど、しませんでした。

おなじ病院の1階は、わたしが不登校になってしまったときに通っていた内科があります。学校に行くとおなかが痛くなってしまうことをくりかえしたため胃カメラの検査をした処置室。検査の機械を見てパニック状態になったときに打ってもらった鎮静剤の注射。検査のあとに薄い黄色いカーテンに囲まれたベットに寝かされていたこと。「自分はふつうだから家に帰る」とフラフラのまま処置室から出て看護婦さんに止められたこと。処置室の前にあった小児科の待合室。その状況のわたしを見て子どもの顔をそっとテレビに向けた知らないおかあさん。そして、精神科受診をすすめられた廊下。

そっと、視界にうつらないようにされたことは、今でもはっきりと覚えています。

タイミングの悪いことに、その時期は服装検査があり、髪の毛の色を真っ黒に染めなおしたばかりでした。パニックと鎮静剤の注射でフラフラなわたしは冷や汗を大量に流していて、その汗は染めたての黒を含んで、うす黒くなっていました。顔にも黒い汗のすじ、服にも黒い水玉が落ちます。今となっては、なんでそのタイミングだったんだろうと笑ってしまうのですが、子どもの目にはいったら、確かにトラウマになったかもしれません。わたしがそのおかあさんの立場でも、できれば子どもの目には入れたくない光景だったと思います

けれど、やっぱり、「自分はそういった側の人間なんだ」と思わざるをえなかったときのあの気持ちは、忘れられないのです。

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自分がした苦労と同じだけの苦労を味わわせたとしても、

ニュースをつけるたびに、「子ども家庭総合支援センター」の話題を目にし、なんだか気がめいるなと思っていたところに、街頭インタビューの放送がありました。

「せっかく税金を払っているのに、こういった施設では利益がない」

だれかが助かることについて、「利益がない」と感じるというわたしにとって常識外のことは、そのひとにとっては常識なのです。なんだかもう、別の世界のような気すらします。もしかして世界は何個も存在しているのではないだろうか、むしろそうあってほしい。もうちがう次元のSFであってほしい。気が遠くなりそうです。

もちろん、眉をひそめて反対をしているひとは全員ではありません。ということはきっと、どの土地でも、どんなジャンルのお話しでも、一定の数は自分の常識がそのひとにとっては非常識であったりすることが起こりうるのだと思います。

たとえば、自分がやっと越してきた憧れの土地に、ひょいと知らない人が住みだしたとします。自分が苦労したから他人にも同じくらい苦労してほしいと思ったとしても、そうしたら自分にどんな得があるのでしょうか。満たされるのでしょうか。逆に、自分が苦労したことを思い出していやな気持ちにならないでしょうか。そうして、他人の苦労もさみしさもつらさもすべて比べていたら、「自分と同じくらい苦労してほしい、自分はもっとたいへんだった、まだ足りない、もっとだ…。」もっともっと、と、永久にだれかと自分を比べ続けなくてはいけないのです。そう考える本人が、たぶんいちばん疲れてしまいそうです。

極端な例ですが、小学校のころ、「刃物のこわさと扱いを覚えるために手で削ったほうがいい」思想の先生がいました。「自分が子どものころはこうやって毎日削って…」と延々と話しだし、各教室にあった電動鉛筆削りを撤去するという強烈な先生でした。
当然、カッターで鉛筆をけずるよりも、電動えんぴつ削りでガーっとやったほうが楽で安全ですし、なんなら芯をけずらなくてすむロケットえんぴつ(まだあるのかなぁ)ってすごく楽じゃなかったですか? 四六時中、楽をしている生徒がいないか鉛筆削りハンターをしていたら先生だって疲れそうですし、両方置いておき、それぞれが勝手に好きなものを使えばそれでいいのに。ムキになって鉛筆削りを教室から撤去してまで、カッターで鉛筆をけずったからといってあの先生に、どんな得があったのだろう…?


ひとは傷つくということを忘れないでいてほしい

常識がかみ合わないできごとに遭遇すると、黄色いカーテンの処置室のベットを思い出します。天井に近いところはメッシュ状になっていたので、寝ている目線からでも、向こう側の天井が見えます。目隠し程度の、ペラペラで薄いカーテンでしたが、外の世界とカーテンの内側の世界は、とても遠いへだたりがあるように感じました。

あのときに思った、「こんなはずじゃなかったのに」という気持ちは、わたしのきっかけです。学校に行けなかった日々に、学校のかわりに通っていたスーパーのベンチで、知らないおばあちゃんからもらった黒あめの甘さは、死にたいような気持ちの日でもちゃんと甘かった。人生はいつ、「こんなはずじゃなかったのに」が起こるかわかりません。他人はすべて、自分だったかもしれない誰かでもあるような気がしてきます。
知らない人になぜか助けてもらったこと、あなたの人生にもありませんか?

そして、人は暴力をうけたとき、まずは傷つくのです。
その後の行動はひとそれぞれ違えど、悲しくて泣くまえに、怒りに震えてやり返すまえに、心を閉ざすまえに、最初に傷つく。そこを、飛ばさないてほしい。どうか、なかったことにしないでほしい。

さらに、暴力をふるう側が完全に悪いはずなのに、血縁というだけで完全に憎みきれないこと、いつか愛してくれることを期待してしまうこと、そこで余計に苦しむのが血縁からの暴力です。その苦しみと葛藤のこと、少しでいいから想像をしてほしい。

これが、祖父に暴力されたけれど、「外にボーンと飛び出して、暴力をふるったりカツアゲしたり」は、したことがないわたしの思うことです。


(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十六回)

文◎成宮アイコ

https://twitter.com/aico_narumiya
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。
朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。
生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動により
たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。
2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)刊行。
EX大衆、Rooftopでもコラム連載中。