【東日本大震災】大川小学校の悲劇と地元に伝わる「ある伝承」

2016年03月07日 伝承 大川小学校 東日本大震災

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 東日本大震災で最大の被災地・宮城県石巻市。その津波浸水域の住民のなかには以前から、津波が来る恐れがあるとして高台の避難場所を作ろうと動いていた人がいた。しかし、地区の住民の中に反対の声があり、整備を断念していた。住民の一人は「もし、高台の避難場所が整備されていれば......」と涙ぐむ。

「郷土を守りたい」という気持ちは今でも持っているといい、現在でも、津波対策について行政に働きかけをしている。

■震災以前から津波に襲われると思っていた?

 石巻市長面地区は新北上川河口付近に位置している。下流側には尾崎(おのさき)地区があるだけ。その先は追波湾につながる。上流側には釜谷地区がある。児童74人、教員10人が亡くなった大川小学校がある。

 私は大川小学校の遺族関連の取材をして、時間があるときは、大川小よりも下流の長面地区や尾崎地区の住民からも声を聞こうと、取材に向かうことがある。震災以後は、居住制限がかかっており、住民は仮設住宅や復興住宅、新居に住んでいる。そのため、会うことができるのは漁業従事者や遺体捜索をしている人、工事関係者、震災支援の関係者が多い場所だ。

 長面地区で15年3月、永沼英夫さん(74)と出会った。永沼さんは大川小の卒業生でもある。「そのころは交通の便が悪いから、横川分校、針岡分校、長面分校があり、4年生まで分校に通い、5年生になったら釜谷の校舎に通ったんです。中学校も近くにあったんですよ。中学1年のとき校舎が引越しをした」

 1941年(昭和16年)生まれの永沼さんは中学卒業後、石巻市内で仕事をしていた。17歳からは自宅で農業をし、19歳になってからは群馬県で働くことになった。35歳のころ、長面に戻った。

「震災以前から長面地区は津波に襲われると思っていた。長面はもともと海ですから。風で運ばれた砂もあるけど、沖から(津波に)運ばれたと思われる跡が残っていたから。普通なら砂浜にあるだろうけど、たまに砂が押されてくるんだろうね。子どものころから砂山の溜まりを見ていた。それをみんな取ってしまったんです。そのため、その跡よりも盛り土をして、住民が避難できる場所を作ろうとした」

 津波と思われる言い伝えもあるという。

「寺に毎年、ツバメがくる。ある年、ツバメがカボチャの種を持ってきた。それを撒いたら大きなカボチャができたんですって。できたカボチャから蛇が出てきて、一夜にして大蛇になった。その大蛇が暴れて沼ができた」

 永沼さんが語った話は龍谷院に伝わる「ツバメの恩返し」の話のことだろう。そうだとすれば、この「ツバメ」が寺にやってくる理由は、「病めるツバメ」を和尚が世話をし、病気が治ってから放したことで、次の春にツバメがやってきた。そのときに落としたのがカボチャの種だった。その種のなかから出てきた蛇が出てきて、一夜にして大蛇になり、暴れ狂い、大沼になった、という話だ。その結果、水が乏しかった地域が便利になった、という話だ。

 その「大蛇」は津波のことではないかと永沼さんは考える。たしかに「津波」かもしれないが、この地域は台風などの低気圧でも気象が荒れ狂うことがある。「一夜にして」というところから、台風などの「低気圧」ではないかとも思えなくもないが、真相はわからない。

 過去の津波に関しては記録がある。

 明治三陸津波では「大川村 大川村は追波の河口に臨み又其湾に面し居るも沿海民家少なかりしを以って流失家屋僅かに一戸死亡亦一人にと止まれり」(宮城県海嘯誌、明治36年)とある。

 昭和三陸大津波では、宮城県昭和震嘯誌(昭和10年)によると、

「昭和八年三月三日 大川村長 柴桃正實 印

     石卷土木工區主任殿

    被害報告ノ件

    昭和八年三月三日午前三時頃海嘯襲來左記被害有之候ニ付報告候也

         記

 一、長面、尾崎間橋梁悉皆流失セリ

 一、海岸堤防(須賀)表腹付約二十間餘欠潰

 一、海門口防波堤約三十間流失埋沒セリ

 追而電話同朝ヨリ不通ニ付書面ヲ以テ申上候」

 とあった。昭和三陸津波のころには、どのような被害調査ができたのかはわからないが、東日本大震災の被害当時の調査のほうが比べ物にならないくらい正確だったのは想像できる。しかし明治以前の記録はない。そのためもあって、永沼さんはこれ以上の津波が来ることも考えていた。

 1981年、永沼さんらは「郷土を住み良くする会」を作った。当時、以下のような設立の文書を残している。

 東国の辺境姿秀優

 波涛一夜万人を呑む

 壮士名を連ね拓心燃ゆ

 千栄の大計記して会より

 開かん

 永沼さんによると、最初のメンバーは当初3人いたが、いずれ40人ほどに膨らんだ。実現するには費用がかかるため、地域として行政に要望しようとした。しかし、地域の中で反対の声があり、実現しなかった。

 ちなみに、2009年に作成されたハザードマップによると、長面地区は最大で「5メートル以上」の浸水となることが見込まれていた。前提は、宮城県沖地震(連動型)を想定し、過去の昭和三陸津波やチリ地震津波の浸水域を参考にして作られたものだ。そのため、震源や地震の希望が変われば、津波の浸水域も変動する。震源によって、津波の方向さえ変わってしまうものだ。

 避難所指定されていた「長面老人憩いの家」や「農林漁業者トレーニングセンター」、その周辺の住宅地は津波による浸水は想定されていない。ほとんどの浸水想定域は田園地帯の部分だ。まるで、住宅地を避けるかのうように浸水域が設定されているのではないかと思えてしまう。

 結局、今回の震災で長面地区は多くの犠牲者を出した。

「小地域別にみた東日本大震災被災地における死亡者および死亡率の分布」(谷謙二、埼玉大学教育学部地理学研究報告32号 2012年)によると、長面地区は79人が死亡。地域住民の15.61%が犠牲になったことを示している。下流側の尾崎地区では、津波が新北上川を遡上するのを横目に車で避難をしたり、地域の避難場所に向かったために、長面地区よりも被害が少なく、死者10人、地域の5.62%と比較的少なかった。長面地区は尾崎地区の3倍弱だったわけだ。

「もし、避難所ができていれば、多くの人が助かったかもしれない」

 そう思わせた「佐藤山」の事例がある。石巻市と同様に被害の大きかった東松島市。その中でも犠牲が目立ったのは野蒜地区だ。死亡者は323人。地域の12.78%が亡くなった。地区別では最も多くの人数が犠牲となり、死亡率も大塚地区(137人が死亡)に次いで二番目だ。

 その野蒜地区に手作り避難所がある。高さ30メートルの岩山だが、登り口には「災害避難所(津波)」と書かれた看板を設置していた。頂上には小屋とあずま屋、展望台がある。土地の所有者、佐藤善文さんが自費で作った私設避難所だ。東日本大震災では70人がこの山に登って助かった、という。

 長面地区の永沼さんは、今後もくるだろう津波から郷土を守ることを諦めているわけではない。同じ思いを持っている住民がまだ他にもいるという。そのため、私有地に盛り土して、乗用車でも避難できるスペースも作ろうとしている。また、新北上川河口に「津波防護丘」であり、「東日本大震災追悼の丘」として「朝日と夕日の見える丘(仮称)」をつくるように行政に働きかけている。

「震災があっても、郷土を守りたい、という気持ちは変わらない」

Written Photo by 渋井哲也

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