小人プロレスラー・プリティ太田インタビュー 〜ミゼット・プロレスの若き戦士の日常〜

2017年12月13日 プロレス ミゼット 小人プロレス 小人プロレスラー

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001kobito.jpg 「地元に全日本女子プロレスが来た時に初めて小人プロレスを知ったんです......ああ、こんな体型でも出来るプロレスがあるんだぁって思ってーーー」

002kobito.jpg「小人プロレスは小さいことを利用して、大きい男にはできない動きをしなければいけないんです」

003kobito.jpg「僕らみたいなのは、テレビ出演には障害がある。出たくても出られない、何でそこまでという気持ちがあります。僕らだって生きているんですよ」

先人達の作った芸、編みだされてきた技

今、プリティ太田(以下、P太田)のことを書こうとする時、2人の小人のエンターテイナーを思い起す。

1人は、福島県南相馬市出身の小人レスラー、リトル・フランキー(以下、L・フランキー)であり、もう一人は、宮城県仙台市出身の役者、日野利彦である。2002年に亡くなったL・フランキーの墓は、大地震でどうなったのだろうか。また、日野利彦も脳溢血で倒れたという。

かつて、L・フランキーはこう言った。

 「お客さんに腹の底から笑って貰えることぐらい、最高なことはないですね。技は全部オリジナルです。男子プロレスをマネしてもダメなんです。僕ら小人の体型を活かしたプロレスを目指すことが大事なんです」

そして、日野利彦も言う。

 「僕は、小さいというキャラクターだけで勝負するのは絶対嫌だから、うぬぼれかもしれないけど、その中にもうひとつの可能性、僕にしかないものを出していきたいんです」

一見、相反する言葉を語っているように聞こえるが、2人の根底に共通しているモノ、それは小さいだけで喰えると思うな、技を芸を磨きチャレンジしていかなければという、強い意志である。

そしてP太田39歳、小人プロレスを志、芸の道を歩み始めた若者。彼の思いを綴る。



リトル・フランキー氏に声をかけられて......

 「小さい頃からプロレスが好きで、よくテレビ中継を見ていたんです。全日本女子プロレスが、ゴールデンタイムで放送されていた全盛期、長与さんやダンプ松本さんはよく見ていたんです。でも、小人プロレスがあること自体知らなくて、92年、地元の茨城県行方市(旧玉造町)に全日本女子プロレスが来た時に、初めて小人プロレスを知ったんです」

当時、P太田は中学三年生、初めて見た小人プロレスに衝撃を受けた。

 「いや、もう本当にビックリだったし、ああ俺みたいな奴でもできるんだと、できるなんて言うとおかしいですけど、こんな体型でもできるプロレスもあるんだと思って、それで益々、プロレスはいいなぁと思いました」

試合後、会場でP太田を見付けた小人レスラーたちが、声をかけてきた。特に、L・フランキーは、「やってみないか」と熱心に誘ったという。

 「スカウトされて、エーッていう感じでしたが、もうその時には、やる気があったんです。でも、親の反対もあって実現できなかった。それで04年に、ようやく親の許しがあって入ったんです。27歳でした」

しかし、時すでに遅く、L・フランキーは亡くなり、小人レスラーはブッタマン1人だった。

 「入った時はブタ(ブッタマン)さんに頼りっぱなしで。ただやっぱり、想像とは違って大変でした。リング作りもありましたし、なんでも先輩方より先に入って仕事をしなくちゃいけない。それでも僕は、他の方たちほど下積みは経験してないんです。急にデビューもさせられましたし。

プロレスは基本的にはブタさんが教えてくれましたが、女子とミゼットは違うんで、会長はじめ他の方たちからも助言を受けました。結局、僕はゼロからというより、マイナスからの出発だったんです」

かつて、小人レスラーたちと酒を飲んだ時があった。その席で彼らの語るリングにおける自負心には、凄みを感じるほどだった。

彼らは、小人プロレスをやることによって、小人という言葉の呪縛から解き放たれたのだ。

彼らのジュニア世代にあたるP太田は、どう考えるのだろう。

 「小人という言葉には、イメージは正直なかったんです。ただ、『ミゼット』イコール『小人プロレス』というので、改めてフューチャーされた。それまでは全然意識してなかったし、気にしてないし、嫌でもないですし。

確かに小さいということで、いじめられたことはありましたが、耐えた? うん、耐えたっていうのもおかしいですけど、結局、助けてくれる人がいつもいたんです」



大演出家に見初められて俳優の世界を垣間見る

P太田入団の1年後、全日本女子プロレス興業が消滅する。

 「僕が入って1年で潰れて、でも、入ったからにはやれる限りやろうと思ったんです。そしたら、他の団体の方が声をかけてくれたんです。

小人プロレスはブタさんと、時には、男子や女子のレスラーとのミックスタッグもありました。そんな時は、やっぱり体型が違うので、より小人らしい動きを考えなくてはいけない。小さいことを利用して、大きい男にはできない動きをしなければいけないんです。でも皆さん、色々考えてくれて、助かった部分はありますね。

あの頃は、着ぐるみの仕事もありましたが、暑いし重いし、やってみると大変な仕事だと思いました」

プロレス、着ぐるみ、そしてコンビニのバイトをやりながらの生活の中、11年、ホリプロから蜷川幸雄演出の舞台、『身毒丸』出演のオファーが入った。蜷川の舞台に出演していた日野に変わる人材を捜していたのだ。

 「僕は今、REINA女子プロレスの所属で、REINAがネットで立ち上げた情報に当たったらしくオファーが来たんです。それで蜷川さんにお会いして、最初は怖いイメージがあったんですが、なんか僕とかマメ山田さん(小人の共演者)には、体が小さいので余計声をかけてくれて『大丈夫、何かあったら言ってね』みたいに、優しく接してくれて全然イメージ違うなと思いました。

確かに稽古になると怖いですけど、僕はまともな演技経験がなかったので、何回もダメ出しを食らいました。僕には台詞がないので動きの指示があるんですけが、それを覚えるのが大変でしたね」

すべてが初体験、時にパニックに陥ったが、スタッフや他の俳優たちが優しく教えてくれたという。そして、初舞台。

 「ただただ、緊張で失敗だけはしないようにと思って、舞台に立っていました。初日を終えた時は、ドッと疲れて、ああ、ようやく初日が終った。でも、これが後何日も続くんだと。共演のマメさんは、この世界では大先輩、もうスゲェ人だなぁと、なんとも言いがたいスゴさです。ハイ。もちろん、アドバイスもいただきました」



閉ざされてしまった扉を彼がいつこじ開けるのだろう

 『身毒丸』の公演は、東京、大阪、名古屋と9月まで続いた。そして11月からは、再び蜷川演出の『あゝ、荒野』に出演した。プロレス、舞台、映画、そしてテレビへもアプローチしたいと、P太田は抱負を語るのだが...。

 「そうみたいですね。僕らみたいなのは、テレビ出演には障害がある。出たくても出られない、何でそこまでという気持ちがあります。僕らは僕らで生きている。これも仕事なわけで、ああ、なんでそこまで厳しくするのかなぁ。

小さい頃は小さいことがイヤでしたけど、逆に途中からは、これをプラスに考えて利用しようと思って。そう考えるようになったのは、プロレスをやるようになったのが大きいかもしれません。プロレスは、体が続く限り死ぬまでやれたらと思います。

それには基礎訓練をもっとやって、僕は正直、笑いは苦手なので、見せるプロレスを目指したいんです。そして、メキシコやアメリカにも遠征したいんです。

気分的には、舞台に出てから違いますね、今は楽しくて。プロレスもそうですが、芸能も楽しく仕方ないんです。新しい展開ができて嬉しいんです。僕は、スーパースターになりたいんです」

今、プリティ太田は、新しい世界に飛び立った。

取材・文◎高部雨市

写真◎ご本人提供

プリティ太田

1978年3月10日、茨城県行方市出身。142cm・49kg。REINA女子プロレス所属。
2004年5月14日、倶知安町民体育館大会でのミスター・ブッタマン戦デビュー。



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