福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)

事故直後の福島第一原発内。

「この話、10年後になっても世に出すべきですよ」。

この言葉を今でも覚えている。朝日新聞記者奥山俊宏(現・朝日新聞編集委員)さんが、取材後にぽつりと僕に言った台詞だ。2012年、福島第一原発事故取材で「もう1人のフクシマ・フィフティー」とも言うべき人にインタビューを終えた後だった。「10年後か。それって本当に出来るものだろうか」とぼんやりと思ったものだ。そして実際にそれを現在、公開する運びになったのも感慨深いものがある―ー。

2011年夏。僕はある人の紹介で福島第一原発作業員に取材を試みていた。作業員たちは皆、20代。福島県双葉郡(双相地区)で生まれ育った若者だった。原発の街に生まれ育ち、原発で勤める事になり、そして原発事故に遭ってしまった青年たち。故郷を自動車で案内してもらったが、道路はでこぼことしており、船が陸上に乗り出し、また店、住宅は崩壊していた。信号はずっと赤点滅のままだった。ある大臣が「ゴーストタウンだ」と言ってひんしゅくを買ったが、彼ら自身が「あの発言、合っていますよ。ゴーストタウンです」と自虐的に笑いながら話してくれた。

あの当時、「彼ら」はどういう思いだったのか。どういう思いで故郷を失ったのか。なぜそれでも原発に帰り、廃炉作業へ行ったのか。どういう気持ちで放射線を浴びながら作業をしているのか。時には酒を飲みながら話を聞いた。「お前、今日、何ミリ食った?」そんな会話が交わされた。

「食った」というのは「放射線を浴びた」という彼らの「専門用語」である。酒も進むと勢いからか、「俺、子供出来なくなるんすかねえ」そんな事を言う若者もいた。何と悲しい言葉だろう。取材から帰る常磐線の中、恥ずかしい話だが取材ノートを見直して涙腺がゆるむ事もあった。それら彼らの生の声を通じて、当時はどういった心情で作業員であり、被災者の彼らは働いていたのかを一冊の本にした(『原発アウトロー青春白書』(ミリオン出版・大洋図書)。

こういった「情」を伝える事は出来る。しかし、そこに専門家の分析・解説をプラスした「報」を加えて「情報」を残しておかなければならない。旧知のジャーナリスト朝日新聞の奥山俊宏記者という人がいる。

ある夜、恐らく新宿・歌舞伎町のゴールデン街で作業員の取材をしていることを奥山さんに言ったら非常に興味を示した。奥山さんとはゴールデン街でお会いするくらいだが、知り合ってからは15年以上になるだろう。『内部告発の力―公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社)を上梓されたころに知り合ったと思う。その後、『ルポ 東京電力  原発危機1カ月』(朝日新書)などを発行している。
奥山さんとメールや電話でやり取りした後、福島県いわき市に作業員の取材をしましょうという事になった。そして僕が取材をしていた作業員とは別ルートである人にインタビューする事が出来た。それが今回の記事になる。「フクシマ・フィフティー」という言葉がフィーチャーされたが、これは「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリーである。

※記事中のマサさんに発言の引用部分をチェックして頂いた後、電話をしたら「こんな事を言っていたんですね」と呟いた。「もう一言ありますか?」というメールを出してみた。「もう一言ですか? 震災さえなければ……ですかねぇ」というメールが2021年1月29日に返ってきた。(文責・久田将義)

原発爆発に屋外・至近で遭遇した現場主任「1号機はパカーン、2号機はダーンッだった」

大手電機設備会社の社員として長年にわたって東京電力の原発で働いてきた彼は、2011年3月11日から15日にかけて事態が悪化しつつある福島第一原発の現場にいた。1号機の爆発は「パカーン!」という軽い音。3号機の爆発はそれとまったく異なり、「もっと速い、ダンッ!みたい」な音。4号機の爆発は「地下を伝わってくるような感じの、ズンッていう感じ」の音だった。

2012年2月、彼は、福島県いわき市内で、ニュースサイトTABLO編集長の久田将義氏と朝日新聞記者の奥山俊宏のインタビューを受け、1年弱前の記憶をたどった。記事にしない前提のインタビューだったが、このほど、事故発生10年を前にその前提を解除。氏名や勤務先の会社名を伏せた上でインタビューの内容を公にすることに彼は同意した。福島第一原発で発生した3回の建屋爆発に遭遇した人による、3回の爆発音の質を比較しての、ここまで具体的な体験談は他に見当たらない。現在、久田氏はウェブサイト「TABLO」の編集長を務め、奥山は朝日新聞の編集委員としてウェブサイト「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」の編集に携わっており、このインタビューの内容はそれらのメディアで一斉に発信することにした。

■14日夜から最悪の15日朝まで

福島第一原発が最悪の事態に至ったのは2011年3月15日朝のことだった。同原発構内にある免震重要棟に彼やその同僚は3月11日から詰めていたが、15日朝、ついにそこを去ることになった。JRいわき駅前の居酒屋で2012年2月29日夜、彼は次のように振り返った。

奥山:15日は何時くらいまでいらしたんですか?

マサ:逃げた日が15日なんで、15日は朝がたに解放状態です。15日朝に「いったん福島第二のほうにみんな避難してくれ」という話だったんで、おのおの、各会社で。そのときにはうちの人間て3人しか残ってなかったんで、その3人で。
15日(に福島第一原発にいたの)は朝だけですね。朝、そういうふうに言われてすぐ2Fに行っちゃったので。

東電関係者の間では、福島第二原発のことを「2F(にえふ)」と呼び、福島第一原発のことを「1F(いちえふ)」と呼ぶ。彼は3月15日朝、福島第一原発(1F)から12キロほど南にある福島第二原発(2F)へと避難した。

奥山:それは何時くらいか覚えておられますか。

マサ:朝ですね、ほんとに朝。

奥山:きっかけみたいなのは何かあったか覚えておられますか。

マサ:14日の晩の時点でもう「ちょっと今の状況で、やることがない」。とりあえず、14日の晩に第一弾で、「今いる人数は必要ないんで、ちょっと選別して、連絡員とかそういう人は残ってほしいんだけど、全部はもう、いる必要がないんで」ということで、14日の晩にいったん解散してるんですよ。で、だけれども、だれもいなくなるわけにはいかないんで、14日の晩から15日の朝まで残ったのが3人だけなんです。

奥山:14日の晩までは何人くらいいらしんたんですか。

マサ:11日から14日の晩までは随時、避難バスみたいなのが出てたんで、体調が悪くなった人間や家庭の事情やいろんな人間で、最初にいた人間からどんどん減っていくんですけど、14日の晩の時点では、どのくらいいたのかな? 8人くらいかなぁ?

奥山:これはA社(彼が務めていた設備会社)全体でということなんですか、それともマサさん(インタビューを受けている彼)の班で、ということですか。

インタビューでは、彼が勤務する会社の名前や彼自身の名前を出して会話したが、この原稿では彼の名前を「マサ」とし、会社名を「A社」と仮名にする。

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