電気が切れても電気が選べない。取るに足らないようなことで世界から拒絶された気持ちになる|成宮アイコ
文字は読めるのに、わけのわからない呪文に見える。
ずいぶん前から部屋の電気がひとつ切れています。
天井に取り付ける形の、よくある円形の電気です。蛍光灯が二重になっていて、どちらか片方が切れたからといっても生活ができるので、ずっとそのままにしていました。
もちろん、買いに行こうとは思っていたのですが、電気屋さんの前まで行っては躊躇して帰ってきてしまいます。「また買わずに帰ってきてしまった(=だから自分はだめなんだ)」と自己嫌悪することに疲れて、気づけば足も遠ざかり、買おうとすることもやめていました。
なぜこんなに苦手なのかというと、「たくさんの中から選ぶ」ということがとても苦手だからです。
電気ひとつをとっても、「省エネ」「総使用時間」「LED」「電球色」わけのわからない呪文のような情報が殴り合いのようにふりかかってきます。
そういったものを前にすると、苦手というか、もう混乱して泣き出しそうなレベルで避けたくなってしまいます。文字は読めても意味がわからない。
この連載第21回「コンビニでなにを買えばいいかわからない日、自己否定でズタズタにする前に。」で書いた家の更新資料の文字が読めても意味がまったくわからなくてパニックになる状態に似ています。
電気すら買えない自分
こうして、本を読むときは明るいキッチンや他の部屋に移動するようになり、そこからだんだんと自分の部屋を放っておくようになりました。
少しだけ暗いのが不便だったからではありません。電気を買わなくてはいけないことを思い出すのがこわいからです。
電気屋さんに行って、またあの呪文と向き合わなくてはいけない、しかもそこから自分にぴったりの電気を選び抜いて買わなくてはいけない、と思うとすっかり気が滅入ってしまいました。テレビでは”家電芸人”なんて新しい家電を楽しめる人がたくさんいるのに、わたしは電気ひとつも買えないのです。
こんなときは頭皮が冷たくなり、顔が熱くなって、今にも泣き出しそうな気持ちがします。みんなはできるのに。「みんな」って誰のことかわからないけれど、ついそう思ってしまう。
そんな姿を見かねた家族に連れられ、無理やり電気屋さんへ。日用家電の階に行くエスカレーターの前で、「やっぱり今度にしよう」「今日はやめておこう」となんども帰ろうとしましたが、逃げきれません。
「そんなこと言ってたらアイコちゃんの部屋いつまでも暗いんだよ!」
薄暗い部屋が思い浮かびます。知らない、もうあのままでいい、キッチンで過ごす。頭の中で繰り返しました。
「いっぱいあるねぇ、どれがいいかな」と楽しそうな家族を横目に、一番安いものはどれだろうと目をこらします。
価格だけで見たらこれが一番安いけど、こっちのほうが使用時間は長いしお得なんだろうか。色も何種類もあるな、どれが使いやすいんだろう。オレンジっぽいほうが落ち着くけど、画面の色が見にくくなるかな。あれ、上の段にもある。…あ、横の棚も電気だ。LEDコーナーもある、高いけど、取り替えをもうしなくて済むのかもしれない。
…。
もうだめだ…。
「ちょっと、わからないです…」
こんなにいっぱいあっても、全然わからないから買うのはやめたい。
このままここにいたら決められない自分を実感し続けることになるぞ、情報を選んで整理して理解することができない自分のだめさと向かい合うのつらい。どれが自分にぴったりなのか、どれだったら間違いないのか、どれがいいのか。みんなどうやって決めてるのか。買ったあと間違えたって思いそう、違うのにすればよかったって思っちゃうかも。ほんとうはもっといいものがあるのかも…。
こうなると、文字情報はまったく認識できなくなります。
「やっぱりいらない、帰ろう…。」
やっとの思いでそうつぶやくと、家族は驚いて、「店員さんに教えてもらおう」といそいで店員さんを呼びに行きました。でも店員さんを前にしても一体なにを聞けばいいのかわかりません。
「ちょっと、よくわからないので…安くてちょうどいいやつをください…。」
無茶な質問に、店員さんは、「どんな色がいいですか?」と聞いてきます。わたしにとってどの色がいいんでしょうか? わたしは何色の電気を使えばいいですか? 混乱します。
「このサンプルのあかりを見て好きなほうはどちらですか?」と指をさしてくれても、電球の色がいいけど、前にそれを選んだら雑誌の色がなにもわからなくてたいへんだったなと思い出し、好きな色を選ぶのか便利なほうを選ぶのかわからなくてますます混乱します。「ちょっと、なにがいいのかわからないです…」
ごめんなさいごめんなさいと思いながら、やっぱり買いに来なければよかったと黙り込んでしまったら、店員さんは、「PCでお仕事もされるんですね? じゃあこちらの色がいいかもしれないですね」と青白い電気の列を指さしました。
その後も、「いちばん安いのはこれなのですが、交換をあまりしなくて良いように…こっちのほうが長寿命なのですが価格があがるので、間をとってこれが便利だと思いますよ」とひとつずつ説明をしてくれます。
結局、パッケージの文字も数字も見なくてすむ買い物ができました。
自分にベストなものを選ばなくてはいけない…わけではない
家に帰って、さっそく電気を取り替えてもらいます。
半年以上も薄暗いままにしていたので、すっかり暗い部屋に見慣れてしまっていて、隅まで明るく照らされた部屋はみちがえるようでした。
ベットの奥なんて見えなくて、スマホのライトで照らしたりしていたのに…。使い終わった蛍光灯の白いガラスを見ていたら、ちょっと笑ってしまいそうな気持ちです。別に「いちばん良い正解のもの」じゃなくてもいいのに、なんで買えないんだろう。
食事の咀嚼をむなしく感じるようになってきたら、それは「自分なんかごはんを食べる価値がない」のではなくて、ただ「メンタルの調子が悪い」という合図なのと同じように、なにかを選ぶことが難しいときは、あんまり気持ちが元気なときではないということかもしれません。
そもそも資料や説明書きを読むことが人一倍苦手なので、「電気を選んで買う」ということへのプレッシャーと、「避け続けて部屋がどんどん薄暗くなっていく」という事実が、この気持ちに追い打ちをかけて悪循環だったのです。
今度から部屋が暗くなってきたら、勇み足で棚に行きパッケージと向き合うのではなくて、「ちょっとわからないので、店員さんが決めてほしいです」とすぐに頼ろうと思いました。
「もう自分で選ばないぞー!」
なにも宣言するものでもないですが、そう思ったら、気が楽になりました。もう自分で選ぶのは無理だ。そうそう、どうしても無理だからやらないでおこう。
確かに、価格と寿命で計算をしたらもっとお得なものはあるかもしれないけれど、わたしは家電マニアじゃないし、細かく計算して自分にベストなものを選ばなくてはいけないという強迫観念で電気が買えなくなるより何倍もいい、部屋が明るくなるだけでこんなに便利なんだから。
自分で肯定ができなくても、他人どうしで肯定しあう
電気が買えないというだけでもガタガタに崩れるメンタルを補強してくれたのは、仕事の近所のお気に入りのタイ料理お弁当屋さんでした。ちょうど母親くらいの年齢の店員さんたちなのですが全員が褒める天才なので、行くだけで気持ちがアッパーになります。
例えば、
たくさん種類のあるお弁当に迷っていたら
「迷っちゃったのーカワイー」
やっと決めたら
「それオイシイよ、すごいネー」
イートインで食べていたら
「辛くない? いっぱい食べてえらいネー」
帰るときには
「風邪ひかないでネー、段差気をつけてネー、カワイーまた来てネー」
こんな調子です。
身内からでもただ存在しているだけでここまでの賞賛をうけたことはありません。褒め称えてくれる店員さんたちのおかげで、わたしは今日もお弁当を上手に買えたし、上手に食べられました。立派だったな…。なんて、くだらないけれどやけに嬉しい気持ちになりました。
先日、SNSでもインド料理屋さんで同じような体験をされた方のツイートを見ました。もしかしたらアジアにはそういったポジティブな文化があるのでしょうか。
この世の中には、ご飯を迷っただけで褒めてくれる人がいる。おいしいお弁当を選んだだけで褒めてくれる人がいる。それってすごく楽しい。日本でももっと過剰に褒めあっていけたらいいなと思いました。
わたしはいま、ひとつ後悔をしています。
電気を選んでくれた店員さんを誉めちぎればよかった。次に電気が切れて、また店員さんに丸投げをした日にはこう言ってみようかなと思います。
「わたし、全然わからなくて電気も買えないのに…選ぶ知識の天才ですね!」
(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十八回)
文◎成宮アイコ