【未解決事件 File.1】 池袋駅立教大学生殴打殺人事件【消えた殺人者たち】
犯人に告ぐ
夜の11時半。東京・池袋駅のJR山手線外回りのホームで、僕はおもむろにごろりとホームに身を横たえてみた。
電車を待つOLがけげんな表情を浮かべ、一瞬僕を見下ろした。だが僕と目線があった瞬間、あわてて目をそらして、そそくさとどこかへ立ち去っていた。後頭部を完全にホームにつけてみた。ほのかにヒンヤリした感触が頭に伝わってきた。
しかし、12月だというのに思ったほど寒くはない。それに立っているときに比べれたら、驚くほど静寂だ。電車を乗り降りする乗客たちが頭上を通っていく。僕は見上げるように眺めていたが、故意か、ただ気づかないのか、それとも関心がないのか、大勢の乗客たちはホームに寝転ぶ僕などまるでいないかのようにふるまって、いつものように電車の乗り降りをしている。
僕の低い目線には、感情も人情も感じれない。ただ足ばかりがせかせかと動き回る無味乾燥な世界があるだけだった。そんな喧噪に比べたら、ホームのひんやりした感触の方がずっと心地よく温かに感じられた。
彼、小林悟さんも、もしかしたら間近に迫る「死」を前に、こんな感情を抱いていたのだろうか。だが、今となってはもう知る由もない。
96年4月11日の夜11時半。小林悟さんは、僕が横たわっているまさにこの場所で、後頭部を強打。それが原因で、数日後に亡くなってしまったのだから。
ホームの感触を十分に味わった僕は、ゆっくりと上体を起こして立ち上がった。
さて、出かけるとしよう。
これから犯人の足取りをたどってみるのだ。そう、悟さんを死に追いやった男の跡を探りに出かけるのである。
あらかじめ断っておくが、ここで僕が展開する考えは、かなりの部分が憶測の域を出ないものである、と思って頂きたい。現実の捜査は、決して憶測に基づいたりしないわけで、この記事もそんな捜査を妨害する意図で書くのではない。
ただ、可能性として、どこかに住む犯人が、意外に離れた場所で今もなお何食わぬ顔をして日常生活を送っているかもしれない……という事だけは、読者の皆さんにわかっほしい。
もし、この記事を読んで、新たに犯人に対する心当たりを感じる人がいたら、ぜひ警察、あるいは編集部や僕の方でも構わないので御一報をいただければ幸いである。(編集部情報提供先 tablo.jp/contact/)
よくある駅構内の「暴行」がこんな悲劇に
悟さんはなぜ死んだのだろうか。実は悟さんの「死」の背景には、大きな「理不尽」が存在している。これから少しずつ、そんな「理不尽」の一つ一つを洗い出してみたい。まずは、当時の新聞記事や警察の調べを元に簡単に事件の流れを説明しておこう。
1996年4月11日の夜、立教大学法学部四年、小林悟さんはJR池袋駅に向かって家路を急いでいた。
「悟さんは、友人2人と午後7時から9時まで居酒屋で軽く食事やお酒をとり、その後2時間ほどカラオケで遊び、11時過ぎになってから、駅に向かったようです」(池袋警察署、神野副署長[当時])。
悟さんは、大学では明るく活発だったそうだ。高校時代の悟さんを知る友人の話によると、その頃は他人に対してむしろ内気で、人見知りをする大人しい一面もあったようだ。真面目ではあったが、かといって、融通のきかない堅物でもない。そんな好青年だったという。
そんな悟さんが、酒が少々入っていたとはいえ、簡単に自分から口論やケンカを起こすことは考えにくかった。実際、酒は入ってはいたのだが、仲間三人で入ったカラオケボックスでは飲酒しなかったので、アルコールはすぐに発散。会計も、悟さんがすませた。
友人の一人は神奈川の逗子方面なので、10時50分頃にカラオケボックスを出て、悟さんともう一人の友人も11時10分にはカラオケボックスを後にした。そして、最後まで一緒にいた友人は駅の改札口で悟さんと別れ、西武池袋線に向かい、埼玉の所沢方面へ帰り、悟さんはJRの改札へと入っていったのだ。
警察の調べでは、電車に乗る混雑のどさくさで、悟さんとサラリーマン風の男--ここではSとする―との間に何らかのトラブルが発生したとなっている。Sと悟さんと口論になり、悟さんはSに突き倒されたのだ。ちょうどホーム中ほどの4番階段を登ってすぐのところである。
池袋駅の階段は北側から順番に1番、2番、3番……と番号がついている。事件当時は4番階段の真下には、事件の目撃者を求める看板が静かに立てかれていた。看板にはSと見られる人相書きも添えられてあった。
池袋駅周辺は、ケンカなどの暴行や障害事件が多いところとしても知られている。一晩に数件から多いときは十数件のケンカを知らせる110番通報が寄せられるのだ。飲み屋でのちょっとしたイザコザ、客引きとのトラブル、さらに雑踏で肩が触れた触れないなど、通報されないものも含めたら、毎日数十から百以上のケンカの類が発生していることになる。そういう意味では、決して珍しい事件ではなく、むしろ「よくある」パターンの事件の一つなのかもしれなかった。
「悟さんは、平手で1,2発殴られ、後ろから転倒したようです、その時に最悪の倒れ方をしてしまい、後頭部を強く打ってしまったのですが、それが死亡に至った主因となりました」(前出・池袋警察神野副署長)。
なぜ、「単なる平手打ち」でそこまでの事態になってしまったのか。警察では、細かい状況は「不明」としながらも、犯人の荒っぽさ、あるいは悟さんに多少の酒が入っていたことなどもあったのではないか、としている。
駅構内には約100人の目撃者がいた……
事件の時、「周りには30人以上の人がいた」という。その前後の目撃者を含めると、あわせて、百数十人が犯人Sの顔を見ている事になる。
悟さんは倒れたときは出血はあまりなかった。しかし、頭蓋骨を骨折して脳内出血していたわけで、かえってその方が危険だった。わずかに鼻血は出していたようで、階段半ばの手すりにその血痕が付着していたという。倒れた直後は痙攣などしていたが、やがて意識を回復。立ち上がって「家に帰るんだ……」というようなことをつぶやいていたりしたという。
駅員の通報で救急車に乗せられて近くの「I病院」まで運ばれたが、5日後の16日に脳内出血が脳を圧迫したために死亡。Sは山手線外回りの上野方面行き電車に乗って逃げた。
「犯人は座席に座っていたそうです。日暮里駅までは目撃者がおり、そこまでの足取りははっきりしています。目撃者本人は日暮里駅で降りてしまったのです。どうやらSは日暮里駅では降りなかったようなのですが、その先どこまで行ったのは分かっていません」
悟さんとSのやりとりを目撃した人のうち9人が名乗り出てくれて(あるいは「9人しか」名乗り出てくれなくて)、その証言を元に池袋署では似顔絵を作成した。
警察の調べでは、Sは年齢(1996年事件当時で)28~38歳くらい。身長178~180cmで悟さん(178cm)と同じくらいだった。肩幅が広くがっちりとした体格。黒に近いグレーのスーツを着てサラリーマン風らしい。右目尻に穴状の3か所ほどの古傷があるのが特徴だという。
池袋署では「しばらくして」から傷害致死事件としては極めて異例の、動員可能な人員の大半を投入する体制をとって捜査を進めたという。
しかし、現場が乗客の多いターミナル駅ということで、雑踏の波にかき消されてしまい、物証はほとんど検出できなかった。目撃者の証言だけが頼りの厳しい捜査となった。
1998年11月でいまだ未確認の証言50件ほどを警部を筆頭に合計6人のチームで足取りのを追っていた。
悟さんの父、小林邦三郎さんは事件後、犯人逮捕に結びつく情報に懸賞金200万円をかけ、さらに独自にSの行方を追ったり、さまざまな啓蒙運動などを行ったりと熱心な活動を続けているのだが、その話は後述させていただく。
大勢の目撃者が囲む輪の中で発生した事件だけに、すぐにSは見つかると思われたのだが(現在ならYouTubeなどにアップされているだろう[編集部])、決め手となる手がかりは浮上しなかった。
未解決のまま現在に至る。
以上が事件の概要なのだが、自分で書きながら、実は僕はその行間にいくつもの「疑問」や「理不尽」が存在することを感じている。
そんな「疑問」や「理不尽」を自分なりに解決してみたいとと思い、僕は山手線のホームから飛び乗ったのだ。
おそらく。
犯人も利用したはずの午後11時半に池袋駅のホームに入線した山手線外回りの上野・東京方面行き電車に……(続く)
文◎石川清