麻原彰晃が生まれ育った土地を歩く 右目は視力があったのに盲学校に通った”事情”|八木澤高明

小菅刑務所(筆者撮影)

 2018年7月6日麻原彰晃をはじめ、オウム真理教に関連する7人の死刑囚の刑が執行され、世の中は騒然となった。筆者はかつて麻原彰晃の生まれ故郷を訪ねたことがあった。

 JR八代駅の小さな改札口を出ると、がらんとした駅前は人通りもまばらだった。近くに化学工場があるのか、薬品の匂いが鼻につく。
 1955年3月2日、麻原彰晃こと松本智津夫は、八代市金剛村で生まれた。市の中心部から車で20分ほど走った場所である。八代市は干拓の町として有名で、金剛村も干拓によってできた村だ。

 球磨川河口に広がる干潟に目をつけ、干拓事業をはじめたのは、寛永九年(1623年)に肥後に入国した細川忠利である。細川氏の入国から明治の廃藩置県までの240年の間に、153カ所の干拓地ができた。八代市に広がる八代平野の三分の二が江戸時代以来の干拓地である。

 干拓地というのは、地縁も血縁もない入植者たちによって、形成される村である。九州だけでなく、遠く長野県から入植する人々もいた。故郷を捨てた人々が、新たな夢や望みを託す場所である。のっぺりとした平たい干拓地には、人々の夢や欲望がぎっしりと詰まっている。麻原の父親も夢や希望を干拓地に追い求めた一人だった。

 八代市内からレンタカーで、麻原の生家のあった場所を訪ねてみることにした。市内から球磨川を渡ると、見通しの良い平野が広がる。
 生家あとを訪ねると、6才で盲学校に通うまで暮らしていた家は既になく、空き地となっていた。麻原は1961年に生家のすぐそばにある金剛小学校に入学するのだが、その半年後に熊本市内にある盲学校に転校する。

 麻原は、左目がほとんど見えなかったが、右目の視力は1.0近くあったという。盲学校に通う必要はなかったのだが、全盲の兄が将来、麻原が全盲になった時に備え、鍼灸の技術だけでも身につけさせておきたいと考え、盲学校に入れたのだという。それと、家庭の経済的な理由もあった。盲学校に通えば、経済的に困窮していた麻原の一家は、国からの補助金により、寄宿舎の食費が免除される。9人兄弟の麻原の一家にとって、寄宿舎に麻原を送ることは経済的な負担がかなり軽減するのであった。

 麻原の父親は、干拓地で豊富に採れる韋草を利用して畳屋をやっていた。麻原の一家だけでなく、この土地での生活は厳しかった。生家近くに暮らす男性は言う。

「昔はムギが主食で、米はあんまり食えなかった。イモを植えても親指ぐらいにしかならない、痩せた土地だから、生活は大変だったよ」

 麻原の記憶を求めて、私はさらに集落の中を歩いてみた。麻原と同年代と思しき人たちに話かけてみても、幼少時代にこの土地を去ってしまった麻原のことを覚えている人には、出会うことができなかった。

 やっとのことで麻原一家のことを覚えている老婆に出会うことができた。

「お父さんは悪か人ではなかったよ。腕のいい職人さんだったよ。事件のだいぶ前には、仕事をやめていたけどね」

 老婆にとって、オウム真理教の麻原彰晃は、金剛村の松本智津夫として記憶が残っていた。

「麻原彰晃じゃなかばってん、松本智津夫は、何度か青山弁護士とここに来ていたよ、小屋みたいだった家も大きくしてね」

 老婆の記憶では、麻原の一家は大陸からの引揚者だった。

「父親が満州から引き揚げてきて、炭坑夫をしていたおじさんのところで、世話になってね。ここに来る前はお父さんも炭坑夫をしていたみたいだよ。それからここで畳屋をはじめたんだ」

 話を聞き終えて、挨拶をして立ち去ろうとすると、老婆はぽつりともらした。

「智津夫はかわいそうな子だった」

 老婆は何を思いその言葉をもらしたのか、世間からは稀代の悪人でしかない麻原彰晃、彼が生まれ育った土地では、世間とは違った眼差しで麻原を見つめる人の姿があった。
 麻原彰晃こと松本智津夫は二度と故郷の土を踏むことはない。(取材・文◎八木澤高明)