性的マイノリティを描いた漫画『境界のないセカイ』 コミック化中止騒動を考察

 マンガ家の幾夜大黒堂氏が、ディー・エヌ・エーが運営するマンガアプリで連載していた『境界のないセカイ』の単行本化が中止になったこと、またそれを受けて連載自体も打ち切りになったことを自身のブログで報告した。

※参考リンク

・幾夜大黒堂氏のブログ

http://ikuya.sblo.jp/article/115089330.html

・連載していたマンガボックス

https://www.mangabox.me/

『境界のないセカイ』は “性別を自由に選択できるようになった世界” が舞台のラブコメ作品である。性転換した元男性の女性を登場させ、性別を選択できることで生じるであろう様々な問題をライトな絵柄と内容で描いていた。

 作者の説明によると、講談社が「表現に問題がある」とamazonなどで予約が始まっていた同作の単行本の発売中止を決定。すると連載場所であったマンガボックスも「それでは収益を得られない」と打ち切りの判断をしたようだ。

 講談社が問題視した表現がどのようなものだったのかというと、作中に度々出て来る「女は男と恋愛するのが普通」といった、異性愛こそが正しいと言い切るかのような場面。幾夜氏は伝聞だと前置きした上で「講談社が性的マイノリティや反差別団体からの抗議をおそれたと聞いた」と述べている。

 しかし、幾夜氏は何も命綱を付けずに執筆していた訳ではない。作品の意図が伝わらず、性の問題に悩む方々を傷付けてしまうことを避けるため、マンガボックスの担当者と打ち合わせをし、これならば問題なかろうという判断を得た上で執筆作業を行っていた。また講談社から発売中止の通達が来た際も、問題のある箇所を修正したり、対になるLGBTへの理解を示すような場面を増やすといった打開案を提示したが、それでも講談社の決定は覆せなかったようだ。

 この一件に対して、性的マイノリティ問題に取り組む団体『レインボー・アクション』がいち早く立場を表明している。

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『境界のないセカイ』発売中止・連載打ち切り問題へのレインボー・アクションの立場表明

http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-228.html

●この作品の性に関する描写に、他の作品と比べて特段の問題があるとは思われません。

●「性的マイノリティの団体・個人の圧力」という多分にフィクショナルな理由に基づき、表現行為に対して自粛を迫るという行為がもしもあったとするならば、それは人権を守るためとても大切な、表現の自由を抑圧するものだろうと考えます。

●それはまた、「性的マイノリティの団体・個人」を怪物視・あるいは怪物化し、性に関する差別を助長するものに他なりません。

※リンク元のブログ記事より引用

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 これが仮に講談社が考えるような「団体から抗議を受けるような作品」であったならば、レインボー・アクションもここまで素早い対応はしなかっただろうし、むしろ話題として取り上げなかった可能性もある。だが 『境界のないセカイ』は専門家の目で見て “そうではなかった” のだ。それなのに講談社が及び腰になってしてしまうと、他の出版社も今後同様の自粛をしてしまうことが予想され、結果的に性的マイノリティ問題を悪化させる可能性が高い。レインボー・アクションが危惧しているように、世間が見えない抗議や圧力に怯えるようになると、単に性の悩みを抱えているだけの人々が「弱者を盾にして因縁をつけてくるような怪物だ」といった偏見を持たれかねない。 大袈裟ではなく、これは過去に様々な反差別を謳う団体が繰り返してきた失敗でもある。

 マイノリティやそれを支援する人々の抗議の声は、世間に届かなくては意味がない。必要があれば、確実に世間の耳目に触れる形で抗議せねばならない。しかし、手法が行き過ぎて暴力や恐怖によって意見を通そうとする “本来の意味でのテロ” と看做されてしまっては、マイノリティが社会に害をなす存在とされてしまい、まったくの逆効果になる。レインボー・アクションは、この小さな一件に対してそうした誤解の可能性を感じたからこそ、講談社の動きに対して「そうではない」と表明したのかもしれない。そのアンテナ感度は信用に値するだろう。

 東京BNに寄稿した過去の記事にも、この問題と殆ど同じ内容のものがある。児童ポルノ法案件の 『ヴィオレッタ問題』 だ。

※参考リンク

『映倫が性被害児童の告発映画『ヴィオレッタ』を児童ポルノ扱いに?』

http://tablo.jp/archives/1484

 この記事でも述べたように、過度の自粛は児童ポルノにしろ性的マイノリティ問題にしろ、世間に対する啓蒙や問題提起、場合によっては被害者自身による告発すら不可能にする。さらに抗議を受けてではなく、自粛であるからこそ「アイツらは怖い、ヤクザだ、恐喝される」といった見えない恐怖を撒き散らす効果が加わり、社会に問題があることや、苦しんでいる人間の存在自体が隠蔽され、誰も救えないどころか状況がますます悪化してしまう。本来ならば、そういった負の連鎖と戦うため、知と筆を武器とするのがメディアだと考えていたのだが、講談社は出版不況のせいか、自分達の存在意義すら見失ってしまったのだろう。申し訳ないが、それでは “言論・表現の自由” などと口にする資格はない。講談社には何のための自由なのか考え直すことをオススメする。

 最後に非常に悪い言い方をさせていただくが、『境界のないセカイ』が萌え絵・アニメ絵に分類されるような絵柄ではなかったら、また性的マイノリティ問題をテーマにしていると伝わりやすい固い内容であったなら、今回のような問題が生じただろうか。おそらく講談社も少しは慎重に考えただろう。単なるオタク向けの萌えマンガだとナメられたからこそ、面倒臭がられて今回の発売中止に至ったのではないかと邪知する。

『境界のないセカイ』 のようなライトな作品は、重いテーマを扱っているとは思われ難く、せいぜい読者の心にモヤモヤを残すまでが限界かもしれない。だがこう考えて欲しい。もっと詳しく性的マイノリティ問題を知りたいならば、本格的な書籍なり小説なり映画なりがいくらでもあるのだから、個々でそちらに流れて行けばいい。しかし堅苦しい作品や書籍はハードルが高すぎるので、人々の目に留まる機会が少ない。よってそんな作品ばかりでは、マイノリティはいつまで経ってもマジョリティからの理解が得られない。だからこそゆるくて軽い作品を入り口として、ジワジワと裾野を広げる必要がある。『境界のないセカイ』 は、その入り口としての役割を担える作品なのだから、出版社は出来る限り作品のテーマと表現を保護すべきだった。

 性に限らず、世にあるマイノリティ問題を解決するためには、少数派の中でしか共有されていない情報を、何らかの手段で多数派へ伝搬させねばならない。いわゆる “知ってもらってナンボ” というヤツだ。そのためには入り口は多く、また間口は広い方がいい。そうした入り口となる作品は、作風によって様々な切り口や描写があるだろうし、誤解を招きかねないケースもあるだろう。だからこそ関係団体などへ理解を求め、また問題とされないような手法を作者と共に考えるスタッフが必要とされるのだ。それが編集者であり、その他の出版社スタッフであろう。それを「問題があると感じたから作品と作者を切っておしまい」とは、プロとしての矜持もクソもあったものではない。

 ハイスコアガールの訴訟問題( http://tablo.jp/archives/2719 ) の際にも述べたが、いくらなんでも出版社のマンガ部門のスタッフは仕事をサボり過ぎなのではあるまいか。マンガやアニメなど二次元コンテンツに対する風当たりは強まる一方だが、そんな逆境の中で彼らがどれだけ戦えるのか甚だ疑問である。

Written by 荒井禎雄

 Photo by 幾夜大黒堂氏のブログより

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出版社も勉強してほしい。