病弱な妻のために「丑の刻参り」した男と空き巣の奇妙な関係【封印された事件史】
明治時代の新聞をながめていると、オカルトめいた記事がしばしば見つかる。明治28年8月28日の『東京朝日新聞』には、丑の刻参りの記事が載っている。神奈川県高部屋村字上粕屋(現・伊勢原市上粕屋)の森の中で、22歳の女性が深夜に丑の刻参りらしき行為を実行中に巡回中の警察官に取り押さえられた。取り調べに女性は、交際相手で結婚の約束までした小学校教師の男が、妊娠出産したとたんに冷たくなり、しかもほかの女と婚約したとの噂を聞いて、つのる恨みにその男を死に追いやろうとワラ人形に釘を打ちつけたことを涙ながらに話したという。
さて、誰でも知っている有名な丑の刻参りだが、詳細についてはよく知られていない。というより、わからないことが実に多い。正しい作法を伝えた経典があるわけでもない。言い伝えや断片的な資料から、大まかな手順が推測されているに過ぎない。それでも多くの人は、これが「憎い相手を呪い殺す方法」であることは知っているだろう。
ところが、何をどう聞き間違えたのか、あるいはほかの何かと勘違いしたのか、まったく違った目的で丑の刻参りを実行した男がいた。
明治42年(1909)のことである。静岡県市野村(現・浜松市)で米穀商を営む新次郎(37)という男がいた。彼にはお菊(28)という妻がいたが、不幸にも肺病を患っており、長らく病床から離れられなかった。新次郎は最愛の妻のため、金に糸目をつけずにいろいろな治療を試みたものの、なかなか快方には向かわない。大金を投じて怪しげな秘薬を購入しようとしたが、寸前でインチキと判明。詐欺の被害にあわなかったのはよかったものの、妻の治療の手立てが失われたことに、新次郎は深く落胆した。
「もはや神にすがるほかはなし」
そう考えた新次郎が実行したのは、何と丑の刻参りだった。深夜、家族が寝静まると、新次郎は自宅から200メートルほど離れた神社まで裸足で出かけると、境内でワラ人形に釘を打ち込み、最後に神前に合掌してひたすら妻の病気が治るように祈った。
丑の刻参りを続けて16日目、いつものように祈りを終えて帰宅すると、新次郎が不在の間にドロボウが盗みに入ったらしく、取引先に支払う現金60円がなくなっていた。当時の60円といえば、現在の価値になおせば数十万円にもなる大金である。おどろいた新次郎はすぐに警察に届けたが、それだけでは気が済まなかった。怒り心頭の新次郎は、「ドロボウの奴め、呪い殺してやる!」と決心した。
本来なら、ここで丑の刻参りとなるはずだが、新次郎は金で修験道の行者を雇うと、ドロボウを足止めする祈祷を始めさせた。呪い殺すとは言ったものの、まずは捕まえて現金を奪い返し、それからとことん酷い目にあわせてやろうと思ったのだろう。
ところが、これが新次郎宅に押し入ったドロボウの耳に入ったらしい。ある日、新次郎の家の裏口に包みが置かれていて、中には盗まれた60円が入っていた。どうやら、噂を聞いて薄気味悪くなったドロボウが投げ込んでいったものと思われた。
これに新次郎は大いに驚き、そして喜んだ。「さずかは神仏の素晴らしい!」と感心し、これならば愛しい妻の病気も全快すること間違いなしと、その後もせっせと丑の刻参りを続けたという。
新聞記事はここで終わっている。果たしてその後、妻のお菊が快方に向かったかどうかはわからない。
ちなみに、21世紀の現在でも丑の刻参りは密かに行われているらしく、どこかの山林や神社の中で、樹木に釘で打たれたワラ人形があった、あるいは見かけたという話をたまに耳にする。
ただ、一説にはワラ人形は最後の7日目には木からもぎ取って燃やし、その灰を道にばらまいて通行人に踏みつけさせて完了だとする資料もある。何より、痕跡を残しておくのが最もよくないのだとか。余談ながら。
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Written by 橋本玉泉
Photo by 「東京朝日新聞」明治28年8月29日/明治42年6月13日
薄気味悪いよ