伝説の横綱・千代の富士とあのプロレス団体の交流秘話|プチ鹿島の余計な下世話!

 千代の富士(九重親方)が亡くなった。優勝31度のほか、数々の大記録を打ち立てた昭和の大横綱である。相撲界の宝。しかしあなたは「千代の富士、プロレス転向」の噂があったことをご存じだろうか。当時、小学生の私も耳にしたくらい有名な噂だった。

 覚えている内容はこうだ。「高見山と千代の富士をエースにして新団体を旗揚げする計画で、団体名は『大日本プロレス』である」。(注)現在の大日本プロレスとは別。

 今回あらためて調べてみると、元力士でプロレスに転向した大位山勝三氏がその話に言及した記事があった。 千代の富士と仲が良かったことを聞かれた大位山は次のように答える。

《よくウチ(国際プロレス)に遊びに来ていたんですよ。彼は十両時代に脱臼ばかりしていてね。その頃に社長に会わせたんです。彼があまりに”プロレスラーにさせてくれ”って言うもんだから。》

《一緒に練習したりもしたんです。本人はその気になって練習していましたよ。ラッシャー木村さんにもらったプッシュアップ用の板で筋トレをやったりね。あの筋トレもそのあとの相撲によかったみたいです。彼が関脇で優勝した時、”私はあるプロレスラーのお蔭で優勝できました”と言って、それが雑誌にも載ったんです。》(「Gスピリッツ」20号・2011年)

 この話は「十両時代」という。大位山が「プロレスは給料が安いから止めておきなよ」と説得して千代の富士は相撲にとどまったという。たしかに国際プロレスは経営に苦労していた。しかし、このあとも千代の富士のプロレス転向話は出るのだ。それが私も耳にした「大日本プロレス」計画である。

 仕掛け人は元プロレスラーのユセフ・トルコ氏。2008年に発行された「別冊宝島・大相撲タブー事件史」は、”日本プロレス界の生き証人”としてトルコ氏にインタビューしている。それは「昭和53年」の話だという。新団体のオーナーはあの梶原一騎氏だった。トルコ氏の回想を抜粋する。

・梶原一騎氏に「トルちゃん、新しいプロレス団体を作りたいんだ」と相談された。日本のプロレス界を統一したいという梶原氏から選手集めを頼まれた。

・「昭和54年の初場所終了後、高見山と千代の富士は廃業してプロレスに転向する」という口約束を取り付けた。

・しかし、2人に支度金を渡すはずが団体旗揚げ資金を使い込んだ人間がいた。結局、計画はとん挫した。

 いかがだろうか。高見山と千代の富士が廃業する決意を本当にしていたかどうかはわからない。ただ話半分でユセフ・トルコの話をきくとしても、とりあえずプロレス転向を持ちかけたことは確かなよう。千代の富士はこのあと昭和55年から「ウルフフィーバー」を日本中に巻き起こす。昭和56年初場所で初優勝してから伝説が始まる。

 私が子どもの頃から知っていたのは「梶原一騎の新団体構想」のほうだった。しかしそれ以前の十両時代から千代の富士がプロレス転向の話があったとは興味深い。それもこれも力士としては細くて小柄な体で、おまけに脱臼というクセを抱えていた千代の富士は将来が不安だったのだろう。

 しかしプロレス流の筋トレでめきめきと体が大きくなった。体の不安がなくなった千代の富士は大横綱への道を歩むのである。大位山の「ラッシャー木村さんにもらったプッシュアップ用の板で筋トレをやったりね。あの筋トレもそのあとの相撲によかったみたいです」という言葉どおりなら、昭和の大横綱誕生のきっかけを手伝ったのはラッシャー木村だったことになる。

 千代の富士に相撲にとどまるよう説得し、筋トレの仕方まで教えた「お人よしの集まり」国際プロレス。

 昭和56年8月9日、国際プロレスは北海道・羅臼町での興行を最後に活動を停止した。その翌月、千代の富士は横綱として初めて場所を迎えた。光陰が交差した。ひとつの歴史のお話である。

Written by プチ鹿島

Photo by NHKスペシャル横綱 千代の富士 前人未到1045勝の記録

NHKスペシャル横綱 千代の富士 前人未到1045勝の記録

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