昭和の公衆トイレは酷くなかったですか?|中川淳一郎・連載『オレの昭和史』第三回

心にトラウマが出来るほど酷かったトイレ

本連載の狙いの一つは過度に美化された『三丁目の夕日』的キラキラ世界観で昭和という時代を見るべきではない、という点にある。

高度成長期には水俣病、四日市ぜんそく、新潟水俣病、イタイイタイ病といった公害が社会問題化した。その頃、河川や海が汚染されたことについて我々1980年代の小学生は学び、行き過ぎた経済成長を反省するかのような論調の社会科教育が行われた。

公害については別の機会に譲るとして、ここでは昭和の便所について書いてみる。今や温水洗浄便座(ウォシュレット等)は公共のトイレにも設置され、駅のトイレも清潔さが保たれているが、1980年代の公衆便所は恐怖の空間だった。
何しろ臭くて汚いのである。
洋式便所はほとんどなく、和式便所だらけだったが、便器の縁や足を置く場所にはクソの飛沫だらけだった。ヒドい時など待ちきれなかった人が便器の外に巨大な大便をしているということもある。

紙はないのが当然のため、ポケットティッシュを利用するのだが、緊急事態的便意で入った場合はそんなものは用意していない。その際は持っていた新聞などで尻を拭いていた。時々ロール式のトイレットペーパーが置いてある便所もあったが補充は頻繁ではなく、虚しく芯だけがカラカラと回っていることの方が多い。その場合は芯の厚紙を切って尻から大便をこびり落としていた。

外ではクソをするのでさえ一大騒動といった状況にあったのである。だからこそ、当時、数枚使ったポケットティッシュを次の困った男のために置いておくという妙に紳士的なマナーも存在した。

また、当時は一体どんな趣味だったのかは分からないのだが、やたらと便所にクソが残っていた。時に見事な50cm超の一本糞というものもあり、さらには小高い丘陵のようなクソもあった。一体あれは何だったのかと考えると、あまりにも大量のクソが出たことが快感だったのと己の成し遂げた偉業を次の便所使用者に誇示したかったのでは、とも思えるのである。

さて、こうして外の便所にはネガティブなイメージしかないが、自宅のトイレもそれよりかはマシといったレベルである。
洋式がある家は少なく、和式がほとんどだった。しかも、ボットン便所の場合は異臭があまりにも激し過ぎた。それはそうである。家族全員のクソと小便が流されることなく次々と溜まっていき、寄生虫やウジもうじゃうじゃと湧くような環境である。クサくないワケがない。
しかしながら1分ほどするとこの臭気には慣れてきて、案外漫画などを読むことができたのだった。だが、数十秒で終わる小便をしに入る場合は、拷問でしかなかった。小便であれば、自宅を出て道を挟んだ向かいにある雑木林で小便をすることを選ぶこともあった。

ボットン便所と少年ジャンプ

東京都国分寺市の市営住宅に住んでいた私のいとこの家のボットン便所は、週刊少年ジャンプを保管する場所になっていた。ズラリとジャンプが並んでいるのだが、クソをする場合、過去のジャンプであろうともつい手に取ってしまう。
用を終えた後、積み重なった質の低いティッシュペーパーもどきの「ちり紙(し)」で尻を拭き、それを下に落とす。さて、ジャンプはどうするか、という状況の場合、読み途中のため、部屋に持っていく。
するとそのジャンプから猛烈な臭気が発生するのである。悶絶のクソ小便まみれ空間に収納されたジャンプにはその悪臭が移り、便所以外の場所で開くと便所の悶え苦しむ地獄のクソファッキンスメルを運んでしまうような形になってしまうのだ。

だが、恐ろしいことにこれを読み終われなかった場合はこのジャンプを借りて私は家に帰っていたのである。

自宅ボットン便所の恐ろしさをさらに上回るのが電車の便所である。今でこそ列車の便所は水洗になっているが、一部車両に敷設された便器はただ穴が開いているだけだった。子供の時分はこのままオレの体は下に落ちてしまわないだろうか……と不安になるような作りだったが、列車が猛スピードで走る中、枕木も見える線路に向け、ビビビーッとクソをし、シャーっと小便をしたのである。

私の記憶にあるこうした便所の風景は1978年から1987年ぐらいのものだが、1960年代前半が舞台である『三丁目の夕日』の頃の便所はもっともっと、ウッ、ゲホッ! オエッ! 的便所だらけだったことだろう。
原作の漫画では『夜の便所』という当時の便所を描く回もあったが、映画では基本的には夢と希望に満ちた様子や溢れる人情が描かれる。便所の苦労を描く意味はあまりないだろうが、あの時代を過度に美化しないでもいい。

文◎中川淳一郎