箪笥(タンス)の上の友だち|川奈まり子の奇譚蒐集・連載【三】
中村進さんが生まれ育った埼玉県鴻巣市には、利根川と荒川を結ぶ人工河川・武蔵水路が流れている。水路の両岸は川底に向かって鋭く傾斜し、水の流れは速く、落ちたら最後、大人でも自力で這いあがることが出来ないと言われている。
落水した人を救うためのロープ付きのブイが川面に浮かぶようになったのは、遊び友だちのアツシくんが進さんの目の前で水に呑まれてからだという。
39年前(一九七九年)の秋のことだった。武蔵水路の周辺は稲作が盛んだ。ちょうど田んぼの収穫が済んだ頃で、籾殻を焼く匂いが進さんたちが遊んでいた橋の上まで漂ってきていた。
よく晴れた穏やかな日で、夕焼け空に千切れ雲があかね色に染まりながらたなびいていた。当時、進さんは5歳で、アツシくんは8歳。他にも5歳から7、8歳の子たちが2、3人一緒にいた。いつもの遊び仲間である。
風が冷たくなってきて、そろそろ帰ろうかというときに、アツシくんが橋の欄干を両手でつかみ、鉄棒をする要領で軽くジャンプして体重を手すりに預けた。
そして、クルッと半回転したかと思ったら、真っ逆さまに水路に落ちていった。
進さんたちは急いで手すりの隙間から橋の下を覗き込んだが、アツシくんはたちまち水底に引き込まれて見えなくなった。後には、どうどうと怖ろしい音を立てて水が流れるばかり。
「アツシくんは悲鳴をあげなかったと思います。何が起きたのかわからなかったんじゃないかな。無言で、目をまん丸く見開いて、ヒューッと落ちていきました。ほんの一瞬の出来事でした」
進さんたちは泣き叫びながらめいめいの家に走って帰り、親たちにアツシくんが水路に転落したことを告げた。大人たちが橋に駆けつけ、すぐに救急隊が救助にあたったが、ほどなく何キロも先の伏せ越し(サイフォン。鉄道や河川の地下の暗渠に水路を通す工法)の入り口の柵に引っかかった状態で遺体が見つかった。
緑色のジャージ上下を着て、運動靴を履いている……
事故から1ヶ月半と少し後の夜、進さんは自分に与えられた部屋で布団に入っていた。進さんの家は、昭和時代の農村地帯では珍しくなかった木造の平屋建てで、彼の部屋というのは、最近まで両親が衣装部屋として使っていた畳敷きの座敷だった。寝ている進さんの足もとには、親たちが使っている大きな箪笥が置かれたままになっていた。
「下の方に引き出しが三つぐらいある上に観音開きの扉がついたハンガー掛けがある、立派な箪笥でした。桐か何か、天然木の木目が扉に渦を巻いていて、夜になると、その木目が人や獣や、目みたいに見えてきて、少し怖かったなぁ」
怖いもの見たさで、よせばいいのに、布団に入ると決まって足もとの箪笥を見てしまう進さんだった。その晩も――。
「いつもみたいに、枕に頭をつけたまま目線だけ動かして、そうっと箪笥の方を見たんです。すると、箪笥の上にアツシくんが座っていて、足をブラブラさせていました」
常夜灯の豆電球が天井で茶色っぽく灯っていた。薄暗がりだが、アツシくんが緑色のジャージ上下を着て、運動靴を履いていることがわかった。緑のジャージはアツシくんの学校の体操着で、亡くなったときもこれを着ていた。
靴や靴下まで、あの日、身につけていたものと同じだと進さんは気がついた。
進さんはとっさに声を張り上げたつもりで口を開いたが、喉の奥からは空気が虚しく押し出されただけだった。手足も動かせない。ただもう、心臓が破れそうに激しく脈打っている。苦しくて仕方がない。
「アツシくんは最初、僕を見つめているのだと思いました。でも、枕の近くで畳を踏む足音がして、そうではないと気づいたんです。僕の頭の近くに誰か立っていて、アツシくんはその人を見ているんだって……」
顔中の毛穴からどっと汗が噴き出してきた。その誰かがしずしずと歩いて、進さんの布団の横で立ち止まった。恐る恐る、目を動かして見やると、毎日、幼稚園の行き帰りであぜ道を通るたびに挨拶を交わしている家の近くの農家のお爺さんだった。
会うたびに作業する手を止めて笑顔で話しかけてくる、優しい老人。土で汚れた作業服姿しか目にしたことがなかったが、今夜はなぜかスーツを着てネクタイを締めている。
「進くん、こんばんは。もっと話がしたかったが、私はもう行かなくちゃいけないんだよ」
温かな声に安堵を覚えながら、進さんは内心首を傾げた。行くって、どこへ?
すると老人は進さんに背を向けて真っ直ぐにアツシくんがいる箪笥に向かった。そして、一瞬の躊躇の後に、観音開きの扉を一気に大きく開いた。
扉の邪魔にならないように、アツシくんが左右の足をパッと軽やかに跳ね上げた。その下をくぐって、老人は箪笥の中に入っていった。
「お爺さんが扉を開けたときから、朝もやのような明るい霧が箪笥の中に垂れこめていて、凄い奥行きがありそうなことがわかりました」
お爺さんが箪笥の奥に消えてしまった途端、意識が遠のいた。
「……目を覚ましたら、涙と鼻水で顔がガビガビになっていました。でも普通の朝でした。お母さんが朝ごはんを作っていて……。箪笥の扉は閉まっていました。おっかなびっくり開けてみたんですが、両親の服がかかっているだけでした」
変わったことと言えば、幼稚園に行く途中、田んぼのあぜ道でお爺さんに会わなかったことぐらい。
老人がそのとき死の床に就いていたことを進さんが知ったのは、それからしばらく後のことだった。重い病気を患い、入院先の病院でそのまま亡くなってしまったのだ。
知らない人の死まで予知できるようになってしまう
この5歳のときから22歳までに、進さんは箪笥の上のアツシくんと近々亡くなる人の幻を合計15、6回も見ている。
「祖父母や親戚、顔見知りだけではなく、尾崎豊やスペースシャトル・チャレンジャー号の乗組員など、会ったこともない有名人もいました。予知夢ということになるのかもしれませんが、見ているときはとても意識がはっきりしていて夢だとは思えませんでした」
最後にこの幻を見たとき、進さんは22歳で、海外留学中だった。
埼玉県の実家にあるはずの観音開きの箪笥が外国の下宿に出現し、箪笥の上にはアツシくんが座っていた。
しかし、前回までとはアツシくんのようすが異なっていた。
これまでのアツシくんは、亡くなったときと同じ、8歳の少年の姿をしていた。ところが、この夜に限って、背が伸びて体格も逞しい、青年になっていた。
「でも間違いなくアツシくんでした! 大人になっていたけれど」
さらには、アツシくんは裸で、右手に大きな鋸を持っていた。
鋸を持ったアツシくんは悲しそうな表情で無言で進さんを見つめていたが、やにわに箪笥から飛び降りて……。
「そこで気を失ってしまいました。それっきり、アツシくんと箪笥が現れることはなくなりました。もしかすると、アツシくんは持っていた鋸で箪笥を壊してくれたのかもしれません。だから箪笥の幻で人の死を予見することもなくなったんでしょうか? でも、大人になった姿を見たせいか、死を予知する代わりに、僕はことあるごとに彼のことを思い出すようになりましたよ。あれから僕は勉強して就職して結婚して子供が生まれて成長して働いて……。アツシくんも生きたかっただろうなぁと考えずにはいられないんです」(「箪笥(タンス)の上の友だち」 川奈まり子の奇譚蒐集・連載【三】)