1986年の自殺 岡田有希子と鹿川裕史君から学んだこと|中川淳一郎
四谷にあるサンミュージック。この屋上から岡田有希子さんは飛び降りた
1986年4月8日12時15分、18歳だったアイドル・岡田有希子が亡くなった。所属事務所であるサンミュージックの入ったビルの屋上から飛び降りたのだ。『くちびるNetwork』がその年に入ってから大ヒットしたばかりの頃だった。私自身は『二人だけのセレモニー』がもっとも好きな曲ではあったが、周囲は『くちびるNetwork』派が圧倒的多数だった。
その頃の人気アイドルといえば、松田聖子と中森明菜がツートップで君臨し、その下に小泉今日子がいたが、当時の中学生からすれば「もう古い」ということになっていた。やはり時代は菊池桃子、南野陽子、斉藤由貴、そして岡田有希子に移りかけていた。大人気のアイドルを好きだと言うとバカにされるという変な傾向があり、本当は松田聖子が好きなのに好きだと言えない空気も存在していた。
岡田有希子さんの代表作「くちびるNetwork」
さて、岡田有希子の訃報を知ったのは私の中学校入学式の日だった。この頃ニュースを知るのは文字通り「口コミ」である。職員室に何か用のある生徒が職員室のテレビで見たものを教室に帰って伝え、それが一斉に学校全体に広がっていくのだ。スマホなどないものだから、手段はこれだけである。
詳細はよく分からないものの、とにかく岡田有希子が飛び降り自殺をしたことだけは分かった。その日、我々は放課後に小学6年生時代の同級生が集い、出身小学校の教師に会いに行くことを決めていた。1年A組からF組までバラバラになった我々が久々に集い、小学校に向かったのだが、その時の話題は岡田有希子のこと一色だった。
こういった時、フザける者も必ず登場するもので、中森明菜の曲『Desire』の一節をパクってこう歌う者が出た。
「まっさかさまに、岡田、有希子!」
実にひどい歌詞であるのだが、以後我が学校ではこの替え歌が流行ったのだ。命の重みというものはあまり皆気付いていなかったのかもしれない。しかし、この2ヶ月前、我々は東京都中野区の中学二年生・鹿川裕史君がいじめを苦にして自殺したことに大いなる衝撃を受けていた。彼は長期にわたるいじめを受けていたが、『このままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ』という遺書を残して岩手県の盛岡駅の駅ビルの便所で首吊り自殺をした。
いじめが自殺に繋がることを全国に示したこの事件だが、「葬式ごっこ」といった陰湿ないやがらせもあった。机の上に鹿川君の遺影を置き、「バーカ」や「いなくなってよかった」などの寄せ書きや飴玉などを置いたのだ。小学校の担任は命の重さを生徒達に伝え、我々も鹿川君の冥福を祈るとともに、いじめをしないよう誓い合ったのだ。しかしその数日後、教師は激怒する。
とあるお調子者のクラスメイト・Nの机の上に、男子生徒連中が国語辞典36冊を休み時間の間に積み上げたのだ。生徒達からすればいじめているつもりもなく、Nもいじめられている気はなかったのだが教師は「この前葬式ごっこみたいなことはやるな、と言ったでしょ! 何やってるの! N君が可哀想でしょ!」と泣いた。我々はシーンとし、Nに対し「ごめんな」と口ぐちに言った。
岡田有希子さん自殺現場には多くのファンが駆け付けそして号泣した
そんなことがあった2ヶ月後にまさかの「まっさかさまに、岡田、有希子!」発言である。あの時の神妙な様子はなんだったのだろうか。
さて、2007年4月8日、ネットニュースの仕事を私が開始してから初の命日の11時45分、私はサンミュージックのある大木戸ビル前に行った。すると大勢の人がビルの前の歩道にいる。ここは歩道がかなり広くなっており、その中央に存在する植え込みには花が咲いている。正午になると追悼集会が開始し、植え込みに人々は花や写真をたむけていく。その場を仕切るリーダー風の男性もおり、彼女が亡くなった12時15分には黙祷をした。
今となっては記憶が定かではなく2人のうちのどちらかは分からないので誰とは書かないが、彼女と同世代のアイドルだった女性も一人来ていた。代表風の男性は、たむけられた花をこれから愛知県にある彼女の菩提寺に運ぶと言っていた。
彼女の死から21年後、ニュースの編集者になった私はあの時の不謹慎な替え歌をたしなめなかったことに対し、どこか後ろめたい気持ちがあったのだろう。だからあの時大木戸ビルまで行き、その様子を記事にしたのかもしれない。(『オレの昭和史』中川淳一郎連載・第十八回)