トークライブハウスの先駆け「ロフト」はいつ出来たのか|ジャーナリスト二木啓孝×ロフト席亭・平野悠

futatsuki.jpg二木啓孝・1949年、鹿児島生まれ。ジャーナリスト。日刊ゲンダイニュース編集部長を経て現在、日本BS放送取締役。

現在、トークライブハウスが全国に展開しています。書店がスペースを設けているケースもあります。書き手と読者の触れ合いがその場所にはあります。書き手だけでなく、芸人、アーティスト、歌手などなどトークライブハウスに登場する人達は多種多様。その先駆けとなるのがライブハウス「ロフト」が新宿・富久町に開いた「ロフトプラスワン」です。

元々はジャズ喫茶だった「ロフト」

二木:1971年、場所は世田谷区烏山。僕は学生運動をしていて、そこにあった消えかかったネオンの「ロフト」という店があった。ドアを開けたらジャズ喫茶だったんですよ。実際はレコードが40~50枚しかなくて。そこでチビチビ飲んでて、店長の悠さんと話をしてたんですよ。

当時は、坂本龍一やノンフィクションライター生江有二とかが集まってワーワーやってたわけです。そこに70年代にはよくあったみんなの「落書きノート」があった。僕は暇だからそこによく書いていて、それを見た悠さんが僕に反論をしてくるんですよね。

平野:そのノートが店と客のコミュニケーションのツールだったんですよ。二木さんはずるいからあんまり書かないんだよな、文章上手いのに。生江はどこの雑誌に載ってもおかしくないような論文を書くんですよ。それを見て、この人はすごいなと噂になって。これは荻窪ロフトの時代の話だけど、それがNHKの朝ドラになったんですよ。ライブハウスのノートを通じて男と女が出会う、っていう。

二木:僕は当時そのノートに「赤マントのハヤシ」っていうペンネームで書いていてね、ブントのヘルメットが赤だったから(笑)。

平野:二木(木が二つの名字)だからハヤシなんだよな。

二木:悠さんは本当にハヤシっていう名前だと思ってたんだよね(笑)。そこからの付き合いだから、47年。細い糸で付かず離れず。ロフトを何軒も作って儲けて、悠さんは一時期ドミニカに住みました。

1984年にロス疑惑という事件があった。三浦和義が逮捕される前、85年から86年にかけて、僕は三浦良枝(夫人)とも交流があったんだけど、三浦夫婦が不仲になって良枝が東京拘置所に離婚届を送っちゃった。そして僕のところにきて、「海外に身を隠したい」って言うんです。
そこで、ドミニカに悠さんがいるって思い出して、「日本では非常に話題になっている『荷物』なので、かくまってください」って書いた手紙をもたせて悠さんに送ったんですよ。

平野:ところが……。

二木:ところが、暴雨風でマイアミで飛行機が欠航になっちゃうんですよ(笑)。それで、ドミニカに届かなかった。

「ロス疑惑」三浦和義はなぜ死んだのか

平野:しかし結局は、三浦和義はなんで自殺をしたのか誰もわからないんだよ。

二木:2008年、三浦はサイパンにマリファナを吸いに行って、アメリカ当局に殺人罪で逮捕されちゃう。それでロスに送られちゃったでしょ。僕はね、「あ、死ぬな」って思ったんですよ。

平野:自殺すると思った?

二木:思った。私が三浦となんで仲良しになったかっていうと、あの時期、高井戸の家をみんな記者が囲んでたんだけど、僕は手紙を書いたんだよね。「コメントなんて欲しくないから、これまでの人生について書いてくれ」って。そしたら電話が来て、書くって返事が来たんだよ。でも、講談社の営業が「逮捕される人の本なんて出せない」って。結局、双葉社から「不透明な時」っていう本が出たんですよ。そこからずっと交流があって、最後、最高裁で無罪判決が出て、その時に彼の口癖は、「僕に時間はないんですよ」だったんだよね。

17歳で捕まって、窃盗から放火もやっていて、前科7犯だった。そこから10年以上もシャバにいなかったから「自分には時間がないんだ、生き急ぐんだ」っていうのが口癖。そこでマリファナで逮捕されて、「僕には時間がない」って言っていた言葉を思い出して、最低30年は入るだろうから、時間もなにもないから、こいつ死ぬな、って思ったんですよ。

平野:ハッパくらいでアメリカに行きたいかねぇ。アメリカはやつを捕まえたくて待ってるんだから。こんな話はじめて聞いたよ。

二木:あいつは酒を飲まないんだよ。でも一緒にゴールデン街に行くと、ジンジャエールを1ダースくらい飲んで朝まで付き合うんだよ。私は彼にズケズケ言っていた。「それはだめだよ」とか言ってくれる奴がいなかったんだと思うんだよね。三浦がモッツ出版で出している本で、唯一褒められているジャーナリストは僕だけですよ(笑)。

平野:でも獄中で自殺するなんて、相当な覚悟なわけだ。

学生運動「俺は負け組、悠さんは勝ち組」(二木啓孝)

平野:二木との思い出は、僕は原一男(映画監督)にハマってたころに「極私的エロス」をとにかく明治大学の学園祭でやらせろ、と。あとは山下洋輔と山下達郎を入れて音楽もやろう、と。僕は企画を仕込んで、学生はその資金として学校からお金をもチョロまかして、自分たちの活動資金にするわけですよ。

僕は、二木のことを、「最後の過激派」と呼んでいて、文学もロックも分かるし、学生運動の戦闘に立っていて。バリケードを作るときなんて、もう活動家もいない全学封鎖ですよ。じゃあどうするかって、鍵穴にアロンアルファを突っ込んで開かなくして、結局学校側から、ドアの修理代を請求されて、お金を払うか除籍するか選べって言われるんですよ。

二木:(結果、大学を)除籍ですよ。

平野:むちゃくちゃかっこいいでしょ(笑)

二木:機動隊に突撃するならかっこいいよ。でも、ストライキできないからアロンアルファをつっこんで、「我々は勝利した!」なんてカッコ悪い……。

平野:僕も、彼と似ていて、労働運動から身を引いて、叔父のおかげで出版社に入ってマンガ雑誌を作るんだけど、結局そこで新左翼の労働組合をつくっちゃう。あのころ出版労連なんて全部共産党だから、おれたちを目の敵にするんだよね。孤立無援の中、もちろん俺は解雇。でも白紙撤回闘争をして勝つんだけど、そこから半年間なんの仕事もないの。それで、しょうがなく、ジャズ喫茶をやろうと思ってロフトをはじめたの。

二木:僕は週刊ポストのフリーの記者になって仲間と「記者労」を作ったんだけど、仕事もしなくて麻雀ばかりやっているようなやつが、固定給出せとか言い出すわけ(笑)。もちろんフリーだから雇用関係なんてないんだけど、常勤なんだから自分たちにも権利はあると言ったら、会社はたまたま毎週続いているだけだと言い出す。確かに「労働者の権利はある」んだけど、だんだんみんな飽きてきて仕事もなくなってきたころに、日刊ゲンダイから、うちに来ないか? って声をかけられた。

平野:結構悩んでたよね。組合を裏切って自分だけ行っていいのか、って。社員になって逃げちゃうわけだもんね。そういうことで俺たちは一番輝かしい全共闘の時代だったよね。デモなんてやったら1万人くらい集まっちゃうんだもん。

二木:悠さんのころは、勝ち戦でしたよね。でも、僕たちの時代はみんなが機動隊に追いかけ回されて、「あれ? これ負け戦じゃん」って(笑)。当時ロフトのノートに、「全共闘は勝ったたのか負けたのか」、と書いたんですよ。自分は「負けたところから出発しないと運動の再生はない」と書いたら、勝ち組の生江有二が「すっぱり切ってからやれ、冗談じゃない」ってやりあったんですよね。

平野:ずっと運動をやってきて、俺たちは決して捨ててなかったよな。

二木:本人がいるから言うんじゃないけど、このおじさんが偉いのは、反原発とか、保坂展人(現・世田谷区長)の区長選とかさ、そういうの出資するんですよね。

hirano.jpgロフト席亭・平野悠氏

オウム事件の頃、ロフトでは何が起きていたのか

二木:僕がオウム事件の取材で、いささかアドバンテージが取れたのは、地下鉄サリン事件の前の年に、仲の良かった刑事に「オウムの資料、持っている?」って聞かれた。「何でだろう」と思ったら、「実は松本サリン事件は彼らの犯行で、上九一色村でいまサリンを作っている」って言う。それから資料を集めたりしたのが、地下鉄サリン事件の半年前。
1995年1月1日の読売新聞一面トップで、「上九一色村のオウム施設でサリンの残像物検出」って出たわけ。それで、あ、もうやるな、と。もう知り合いの刑事は対策本部に入っていたから、僕はその人の捜査情報一本だけでやってきたたんですよ。

平野:それで「オウム三人衆」(ジャーナリスト・江川紹子氏、有田芳生現参議院議員とそして二木啓孝氏)になったんだ。

二木:江川紹子は横浜の新聞時代に坂本堤弁護士一家殺害事件から、有田芳生は宗教問題から。僕は事件の窓からオウムを見ていた。そういう意味で言うと、オウムの話を当時書いてはいたけど、事件の問題に絞っていたんだよね。ほかの二人はオウム真理教の問題から入ったり、人権問題から入ったり、案の定、江川紹子と有田芳生はバッティングしはじめちゃって、江川は文春をとって、有田は週刊朝日に行く。
あのころ、僕は永田町では昼は政治取材をして、夜は知り合いのおっちゃんから情報をもらってオウム事件をやって、若い記者にはスケベな記事を書かせて、僕は、名刺に「日刊ゲンダイ〜テロからエロまで」って裏は「銀行から淫行まで」って刷ろうと言った。
夕刊紙って、帰宅途中のサラリーマンに読ませるから、興味のあることをなんでも書いていたんですよね。当時は原稿は70行以内って決めていたんです。なぜかと言うと、電車で各駅停車の区間で大体読めるのが70行。そのリズムを決めていたんですよ。

平野:やっぱり、日刊ゲンダイをブレイクさせたのはあなたでしょう。それまで日刊ゲンダイなんてそこまで読まれてなかったよ。オウム以降にどーんと伸びたでしょ。

二木:日刊ゲンダイが一番売れたのが、麻原逮捕の日なんですよ。なぜ売れたかというと、サラリーマンは電車・地下鉄で通ってたから、明日は我が身だったんですよね。僕はあの日、泊まり番だったから、朝にサリン事件を知って、「やりやがったな」って思った。3月22日に強制捜査って知ってたからね。それで、現場で人々が病院に運ばれるところをずっと取材して書いていたんだよ。そしたら急に夕方みたいに暗くなって、なんだろうと思ったら、その付近にサリンが残っていて、縮瞳になっていた。

平野:あんたもいたんだよな。あと30分早く現場に行っていたら、死んでたよな。

二木:オウム事件は、雨宮処凛(評論家)とか森達也(映画監督)とか鈴木邦男(元一水会代表)とか僕もそうだけど、麻原を死刑にしちゃいかんという意見なんですよ。僕も何度も裁判の傍聴に行ったわけですけど、麻原は完全にもう精神状態がおかしいわけ。でも裁判所は一環して詐病だと。「オウム真相究明の会」というのを立ち上げたんですけど、それは麻原を治療をしてから、もう一度法廷に立たせて、それでも証言拒否をするんだったから構わないと。
僕の感覚で言うと、麻原がああいう風に精神状態がダメになってからは、「全部が麻原の指示だった」と信者が言っているんですね。そりゃあ麻原が悪いし、僕は死刑廃止論者でもないけど、裁判の記録というのは歴史だから。やっぱりああいう形で麻原が錯乱状態のまま裁判をしても、ずっとオウム事件を追いかけてきた森達也も僕も、事件は着地しないと思う。そういう集まりを作って、よし会見をしようと思ったら、急に死刑があったから。この集会は真相究明の会の解散集会でもあったんですよ。

平野:その会見の日だろ。「やや日刊カルト新聞」の藤倉(善郎)が、IWJ(ジャーナリスト岩上安身が代表)しか取材をさせないのはおかしいって言って会場でもめて。

二木:僕はそこは関知していなくて、主催者でやってください、と思ってたんですけど。逆に言えば入れてもいいじゃんって思うけどね。

平野:「それをなんでうちでやらないんだ!」ってロフトの事務所で怒ったからね(笑)。こんなトラブルは絶対うちでイベントをやるべきだって。

二木:僕もトラブルは好きですよ。そういう野次馬でやってきたんだけど。でも最近そういうトラブルはあんまり関心がなくなってきちゃって。そのぶんのエネルギーを別のところで使いたい、みたいな。で、シンポジウムで麻原の精神鑑定をした野田正彰(医師)さんと話したときに、「あの様子は明らかにおかしい、詐病じゃないですよ」って言うんですよ。まだ、彼が見た当時は、半年治療すれば戻ると言ってたんです。僕はそこで治療をすべきだったと思う。

平野:一気に13人も死刑にした理由ってなんなんだろう。

二木:死刑判決から半年以内に執行するというのは法律で決まっているわけだけど、あれで死刑にされちゃうと事件が着地しないんですよ。江川さんが言うには明らかに麻原が主犯なんだから、麻原は死刑にしてもいいけど、井上(嘉浩元死刑囚)や新実(智光元死刑囚)などは全部生かして彼らにオウムの真相をずっとしゃべり続けて欲しかったって。それはちょっとおかしいなと僕は思う。森達也は一審判決の日に傍聴をして、これはおかしいと思ってずっと取材をしているんだけど、江川さんは、自分はずっと取材をしてきたのに途中から入ってきて何言うのよと思っているんでしょうね。(後半に続く)

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