インスタ映えで有名ホテルのプールに行ってきたぁ? 俺たちは市営プールだったぞ!|中川淳一郎
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季節外れで申し訳ないがここ数年、いわゆる「プール」は東京プリンスホテルと雑誌『CanCam』がコラボしたように、インスタ映えスポットになっている。だが昭和の時代、プールは夏の暇つぶしの場所であり、娯楽の王者だった。
私が小学校4年までを過ごした神奈川県川崎市宮前区(「高津区」の時期もあった)の鷺沼という場所には「鷺沼プール」という市営のプールがあった。ここは市内の小学生は70円で入れたのだが、1983年の夏、私は40日間の夏休みの間、50回行くという目標を立て、実際に8月31日には50回目を達成した。
鷺沼プールは様々な形のプールが5つあり、深さに応じて「子供用プール」「Aプール」「Bプール」「Cプール」があり、そして大人限定の「六角プール」があった。私は当然「六角プール」には入れなかったが、大人達が意気揚々として「六角プール」に入る様を眺めては「いつかは入りたい……」と思ったものである。
このプールは今でいうところの「マリンパーク」にも近い形で総合的なレジャー施設といってもいいほどの充実ぶりだった。グーグル画像検索で「鷺沼プール」と入れると、「えっ? これを市営でやっていたの?」と言いたくなる画像が出るほど実に敷地面積は広く、訪れた者をワクワクさせるプールだった。
そんな鷺沼プールは2002年に廃止されもう行けなくなったが、市民プールがいかに昭和の夏の娯楽として重要なのかは、1984年に東京都立川市に引っ越してからも理解することになる。この時よく行ったのは東京都国分寺市にある「北町プール」である。
私の家の近くにも立川の泉市民体育館にもプールはあったが、ここは屋内でいわゆる「ジム」のため、あくまでも水泳の実力をつけるために行く場所で修業のための施設である。一方、屋外のプールの楽しさったらハンパない。北町プールは縦は50mだったが、横の25mを基本は使うように監視員が指導しており、一緒に行く友人や従兄と一緒に25mを何往復もし、1000m泳ぐことを目指し、ひたすら競争し続ける。
しかも、この頃の屋外プールの近くには、鷺沼プールも北町プールもそうだが、屋台が出て、渇いた喉を潤してくれるとともに、夕食前の小腹が減った状態を癒してくれたのだ。瓶に入った70円のヨーグルト風飲料「スコール」を飲みながら、100円の「アメリカンドッグ」を食べる。「フランクフルト」は150円もするため避けるのだ。
プールの営業時間終了まで残り、夕焼けが出る中スコールとアメリカンドッグを体内に入れながら、夕闇が迫る中、雑木林に行ってクワガタとカブトムシを取る。これがプールの後のレジャー第二弾だ。
何匹か捕まえたらポリ袋に入れて自転車を飛ばし、自宅に到着したらすぐにクワガタやカブトムシが入った水槽にこの「新入り」を入れる。「仲良くするんだよ」なんて言いながら、桃の種やらメロンの皮を入れて、虫達が熱心に舌を出して甘いエキスを吸う様を見て夕ご飯を食べ、その日の宿題をやって9時30分ぐらいに寝るのだ。
7時ぐらいに起きようと思っていたら朝の4時にいきなり家のベルが鳴る。すわ、不審者か、と家族総出で外に出て暴漢に備えたら「今からクワガタを取りに行こうよ!」なんて同級生の浅沼君が立っている。
すぐにパジャマから着替え、自転車に乗って栗畑に行き、クワガタを取り、その辺に自生しているビワの身を食べ、浅沼君と私は家に戻る。
もしかしたら今の子供達もこんな感じかもしれないが、私が「昭和の夏の子供達」を(今は冬だけど)思い返したらこんな光景が鮮やかに蘇ってくる。(文◎中川淳一郎 連載『俺の昭和史』)