一体なぜ我々は駄菓子屋にハマっていたのだろう 昭和の子どたちが夢中になった時間 |中川淳一郎

もう戻れないのか…

昭和の時代は民放テレビのプライムタイムに女性の裸が出るなど、今では考えられないことが多かったが、今考えると実に恐ろしいのが「野良犬がそこらへんにかなりいた」ことである。何しろ学校から帰る途中の道の先には巨大な犬が立っておりこちらを睥睨している。狂犬病が恐ろしいのと、とにかく威圧感があるため、道を変えることもあった。

ここからはまったく関係のない話になるのだが、昭和といえば、TBSラジオ『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』を思い出す。1969年に開始した同番組は今でも続いているが、1985年の夏、近所の和菓子屋にマムシさんがやってきた。当時のマムシさんは49歳だったが、生で聞く「なんだこのババア!」には当たり前の話だが「本当に言うんだ」と思った。あれから34年、マムシさんも今年は83歳になるが、いつまでも「このババア!」を貫いてほしいと勝手に思う。

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それで、さらに別の話になり、ここからが本題だが、当時は町中に駄菓子屋だらけだった。小学校5、6年生の時、自分達の生息範囲には「まるぎん」「うすい商店」「小林」とあとはもう一つ名前が分からない駄菓子屋があった。店の前には10円玉を入れてそれを弾いて日本の高速道路を進んでいくゲームやら、10円のスロットゲームなどがあった。何か貴重なものがもらえるわけでもなく、20円のお菓子がもらえる程度なのだが、妙にのめりこんでいた。

一体なぜ、あそこまで駄菓子屋に我々はハマっていたのだろうか。今となってはさっぱりわからないし、あの場で何をやっていたのかも分からない。ただ、店の前にたむろし、10円のヨーグルトを食べたり、カネがない時は5円チョコを食べたりしているだけなのだ。そして、通常ゲームセンターでは50円か100円するアーケードゲームが駄菓子屋ではなぜか20円だった。

どこかのゲームセンターの中古か、或いは基盤をコピーした海賊品か何かだろうが、ゲームを置いてある2店こそ子供達の支持を集めていた。学校が終わる時はクラスメイトに「じゃあ、3時にまるぎんで会おう」なんて言い、一旦家に帰るのだが、皆時間には間に合っていた。

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そして、約2時間をその駄菓子屋で過ごすのだが、不思議と駄菓子屋のおばちゃんは皆「大仏ヘアー」というか、佐藤蛾次郎か高木ブーの雷様のようなパーマをかけていて一様に小太りだった。おばちゃんは一切子供達の名前を覚えることはなく、昨今テレビなどで話題になる「駄菓子屋のおばちゃんと居場所のない子供達の交流」みたいなものはなかった。

今しみじみとこう振り返ってみると、各店舗には独自色を出そうという努力が感じられた。「ゲームを置いてある」という店があるというのはすでに述べた通りだが、小さなカップラーメンである「ベビースターミニカップラーメン」(現「ブタメン」)にお湯を入れてくれる店もあった。

ゲームはないものの、駄菓子の品ぞろえがよかった店もあった。何しろ、10円の”かき餅”である「餅太郎」が4軒の中で唯一売っていたのだ。私は「餅太郎」のためだけに同店に行っていた。あとは、クロネコヤマトの宅急便を唯一扱う店もあったが、そこには大人もやってきて、醤油などの調味料を買っていた。

それほど広くない場所に4軒もの駄菓子屋が存在し、各店舗が子供達を魅了すべく様々な施策を打っていたことが今となっては分かる。あの時は全く考えていなかったが、あの大仏ヘアーのオババ達は皆知恵を振り絞り、地域の人々に有益なサービスを提供していたのだ。今、これらの店は一軒も残っていない。(文◎中川淳一郎 連載『俺の昭和史』)