「男性としての能力がない」小室哲哉がポロリとこぼしたこの言葉の裏側には50代男性特有の悲哀が込められている…!?

泣く子も黙る必殺文春砲に対し、まさかの逆ギレ引退弾を撃ち返した小室哲哉。これにて形勢は逆転、「文春憎し」に世論を持ち込んだTKの戦法は、まさに身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ……というべき、見事なモノではあった。

ベッキーや山尾志桜里の時は鬼の首を取ったように、ああだこうだと騒いだ方々も、「KEIKOの看護疲れじゃ仕方ないよね」、と年老いた親族の介護が必須の我が身に置き換えて、一億総同情モードと言ったところだ。

実は筆者も、五つと変わらぬ年齢の小室会見を見て、「うむ、うむ、よくわかるよ」と涙を流さんばかりに頷いたひとりである。介護疲れに? いやいや、そんなことは程度の差こそあれ、少子高齢化社会の日本では誰の身にもあること。そこではない、小室が会見で述べた「この5、6年、男性のとしての能力がなかった」という一言だ。

小室のこの「能力がなかった」云々は、”不倫相手”とされる40代の看護師を自宅に招いた際に、いわゆる肉体関係がなかったというエクスキューズとして口から出た言葉だ。俗っぽく言えば、「ヤッてはいませんよ」ということだろうが、実はこの言葉、妻との不貞という意味では弁解の言葉とはなり得ない。いくら妻が高度の障害を持っていようと、自宅に妻以外の女性を無断で宿泊させるという行為は、倫理的(感情的)にアウトと取る女性が多いだろうからだ。

この発言の最大のポイントは、おそらく希代の人気プロデューサー・ミュージシャンとして才能を発揮するとともに、数多くの浮名を流してきた小室哲哉とは思えないような「感情の発露」にある。

「男性としての能力がない」というのは、そのままとればインポテンツのことである。医学的に言えば、勃起不全=EDだ。実はこの勃起不全、現代においては50代の男性を悩ます大きな病のひとつだ。それもどうしたことか、ヤリチンと言われるような早熟で女癖の悪い男性が陥りやすい傾向も見られるから厄介だ。

そういった現状を考えると、女盛りの40代を招いておいて、小室が行為に至らなかったということは十二分にあり得ることなのだ。「いや、そんなワケないだろう」と頭から否定している男は、まだその年齢に達していないか、あるいは遅い春を謳歌しているような「社会人デビュー」組の可能性は高い。

しかし……ここが微妙でまた厄介なのだが、概して小室型の男は、女の体や性行為自体に興味がまったく無くなるワケではない。

正直言えばやりたいのである。そして、往々にしてその欲望はよりプリミティブに、己の嗜好が露出する。誰でもいいのではない。ロリ系志向ならロリ系に、SMが好きならSMに……と言った感じにだ。だがしかし、である。ヤリチンであったならばあったほど、勃起不全という屈辱は耐えがたく、バイアグラなどにも抵抗が強い。
そしてまた、ヤリチンであった故にバイアグラを使用してまでの性行為を欲しない淡白さも有している。例えるなら、こんなカラダで己が欲望は果たせない、せめて女体を近づけて疼く欲望を鎮めよう……。
ズバリ、この複雑な感情こそが、ヤリごろの女を前にして、性行為抜きで一種の癒しを得るという奇妙な行動の原因だ。

そしてこれは大事なことだが、それは小室ほどではなくても、やはり相応以上の女性経験を持つ男性にのみ与えられた試練であるということ。そう、この神が与えた試練の前に、元ヤリチンたちは「フッ」と顔を歪めるくらいしか能がないのだ。

文◎真柄太郎