「暴力行使の本質」を考える 川崎市・登戸カリタス小学校殺傷事件|久田将義
では、今回の川崎の事件の犯人の目的は何だったのか。すでに本人が自殺しているので、遺書のようなものが発見されない以上は想像してみるしかない。
事件に対する社会の反応から逆算する形で想像するならば、犯人の目的は社会に衝撃と不快感、無力感を抱かせることにあったのではないだろうか。犯人はこのような願望を抱いた時点で、「1人で死ぬ」ことを選択するような存在ではなくなっているのだ。
想像で不足なら、児童8人が死亡し、児童生徒15人がけがを負った大阪教育大付属池田小学校の事件(2001年)をヒントにすることもできる。犯人の宅間守はいっさい反省の色を見せることなく、死刑になるまで毒を吐き続けた。
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犯人の願望が上記のようなものであるならば、暴力行使のあり方も必然的に、社会が最も「起きて欲しくない」と考える形のもの――無防備で無力な対象に対する攻撃になるほかない。
では、このような事件を抑止するにはどうすればよいのか。ハッキリ言って、このような悪意を持った存在を事前に見分け、行動に介入する術は皆無に等しいだろう。ただ、暴力行使の本質を見極めて行けば、何らかの対応策を考える余地は出てくるかもしれない。
前述したとおり、暴力を行使しようとする者は、相手よりも優位を占めようとするものだ。刃物で武装した犯人が無警戒な人物に後ろから近づいたり、大人が子供を襲撃したりするのもそのためだ。逆に言うと、優位を失った襲撃者は、行動を継続しようとする意思が弱まるかもしれない。
もちろん、突発的な状況で、襲撃者から優位を奪うのは至難の業だ。そのこと自体に、人命の危機が伴う。ならば普段から、「このような計画は容易に遂行できない」という認識を、襲撃者予備軍に社会全体で与えていく必要があるのではないか。
そうした取り組みは例えば、通学中の子供たちを道行く大人が全員で見守り、何か不自然な点に気付いたら、互いに声を掛け合って警戒するという、これまでも必要性が感じられてきた草の根の努力から始まるのではないか。それさえできれば、無防備な人々の不意を突こうと狙う襲撃者は、簡単には優位を占められなくなるはずだ。(文◎久田将義)