福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)
■11日午後、地震と津波が発生
【2012年2月29日にインタビューを受けた時点で彼は40歳台。福島県外出身で、高校を卒業して電気設備会社A社に入った。
振り出しは福島第一原発。その後、新潟県の柏崎刈羽原発に転勤し、再び福島第一に戻ってきた。福島第一原発での勤務が通算で20年ほどだった2011年3月11日。午後2時46分に東北地方太平洋沖地震は発生した。震源は福島第一原発から180キロ離れた三陸沖の太平洋の地底で、マグニチュードは9だった。】
奥山:地震のときはどちらにいらして、どんな?
マサ:ぼくは11日の午後は事務所にいたんで。事務所はプレハブじゃないんですけど、そんなにしっかりした建物ではない3階建ての3階にいたんで、揺れはすごかったですね。
奥山:ふだんのお仕事的には、定期検査中のところの電気関係が主な。
マサ:そうですね、うちは、電気関係のことをとりあえずすべてにおいて。同じ業種の業者もいますんで、そこらへんを棲み分けする感じで、何号機はどこ、何号機はどこ、みたいな感じでずっと棲み分けができてるんで。その中で。やっぱり1F(いちえふ)ってもうできてるものなので、そういうメンテナンス的な要素しかないんですよね、仕事的に。あと改造と。改造とメンテナンスしかないんで。
奥山:地震が起こったあと、津波が来た。それはどういうふうにして知りました?
マサ:現場に行ってた人間がいて。その人間たちが徒歩で海岸のほうからずうっと上がってきて、「すげえことになってる」と。ぼくは見てないんですけど。事務所はけっこう高台のほうにあって。下のほうの現場に行ってた人間が徒歩で上がってきて、「すげえことになってる」と。
奥山:事務所は、協力企業が集まってるセンターみたいなところに?
マサ:そうですね、そういう企業棟というのが。
奥山:内陸側のほうに?
マサ:そうです。
奥山:そこに現場から戻ってこられて?
マサ:そうです。
奥山:4時過ぎぐらい、夕方ぐらいに?
マサ:そうですね。
奥山:それは津波ですごいことになってる、と。
マサ:そうです。
奥山:覚えてる言葉とか印象に残ってることは。
マサ:いや、やっぱり現場の人間は、あんだけの時間差があってよかった。津波が来るまで30分ぐらいありましたよね。地震で動けなかったけれども、とりあえず様子見てるうちに海がこう来るんで、「ヤバい、ヤバい!」って上がってきて。で、高台にいて、なおかつちょっと様子見てるときに、今度第2波。第2波は今度もっとデカいのが。もうそのときには、うしろも見ずに帰ってきたって言ってましたね。
【福島第一原発の1.5キロ沖合に設置された波高計によれば、津波の第1波は午後3時15分ごろに始まり、なだらかに高まって午後3時27分ごろに高さ4メートルほどのピークに達した。いったん波高は低くなったものの、午後3時33分ごろから再び急上昇し、これが第2波となった。波高計は午後3時35分に測定限界の7.5メートルを超える津波で破損。TBSテレビの映像記録によれば、午後3時36分22秒、福島第一原発の建屋(おそらく4号機のタービン建屋)に津波が激突し、波しぶきが垂直に立ち上がって建屋の高さを大きく超える様子が、福島県富岡町の小良ケ浜(おらがはま)の岬にテレビユー福島が設けていた「お天気カメラ」(定点の情報カメラ)によってとらえられている。】
奥山:そのあと重要免震棟に行くわけですか。
マサ:11日の午後2時何分に(地震が)あって、そのままホントは「帰れる人は帰っていいよ」っていう話があったんですけど、ぼくらも当然、そういうことがあれば、このあと「復旧やらなきゃいけないね」っていうのがあるんで。会社としても、ある程度の人数は残さなきゃいけないし。指示があったというか、そのときに全、構内から全部の人たちが出ていこうとしてるんで、渋滞でどうしようもないんです。だから、「そんなにあわてて出なくてもいいんじゃない?」って思ってて。きっと復旧っていう話にもなるし。ぼくもそれを「関係ない」って言える立場ではないんで。「とりあえずちょっと様子見て」って言ってるうちに、やっぱりお客さんのほうから「これから復旧やらなきゃいけないんで、とりあえずある程度の人数と、仕事ができる作業員をちょっと残してくんねぇか。連絡がとれるようにしてくれねぇか」っていう話になったんで、そう言われちゃうと帰れないですよね。
奥山:「お客さん」というのは東電ですよね。
マサ:そうです。
奥山:それは当日(3月11日)の夕方?
マサ:そうです、4時、5時ぐらい
〈インタビュアー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文責・写真@久田将義 次号へ続く〉