パリのノートルダム大聖堂が火災で焼け落ちたニュースは、およそ1万キロ離れた日本にもトップニュースとして飛び込んで来ました。
日本のワイドショーで繰り返し流された、ノートルダム大聖堂が黒煙をあげながら燃え、シンボルである塔が崩落する映像。私はそんな悲しいニュースを見ながら、どことなく違和感を持っていました。それは、日本人の宗教心の欠如に関わる問題だということがみえてきたのです。
このニュース、寡聞にして私の知る限り「世界遺産が」とか「凱旋門とエッフェル塔に並ぶ人気の観光施設が」という言い方で報道されるものばかりでした。確かに世界遺産に認定された、貴重な建築物であることには間違いありません。
しかしノートルダム大聖堂は、まず寺院(教会)です。
つまり、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国や世界中のカトリック教徒の、宗教的象徴であり心のよりどころなのです。そんな存在が焼け落ちていく様を目の当たりにした、カトリック教徒の方々のショックはいかばかりだったでしょう。信者でない私でさえ、祈りと信仰の中心が失われたという思いでした。しかし、日本の報道でこの部分にアプローチしているものは見られませんでした。
日本人は無宗教だといわれ、多くの人がそう自覚しています。だからこそ、外国から流れ込んでくる様々な文化を、たおやかに受け入れたり、日本文化に合流させたりしながら共存できるという良い点があります。
一方で、ノートルダム大聖堂が焼け落ちて最も悲しんでいる人たちの「心」を慮ることができなくなっているのです。
宗教というと多くの日本人はアレルギーのように拒絶します。けれども宗教心とは、特定の信仰を持つことでなく、人間が誰でも持つ「心」のよりどころ話なのです。燃えてしまった世界遺産の金銭的価値がいくらだとか、有名な文化財が焼けたとまでしか言えない日本人は、無宗教の名の下に、心までをも失ってしまったのではないかと感じています。
参考記事:日本で初めて起きた宗教対立による殺人事件 夏休みのキャンパスで狙われた『悪魔の詩』翻訳者|八木澤高明 | TABLO
ノートルダムとはフランス語で「われらが貴婦人」と訳されます。すなわち、聖母マリアのことであり、母なる聖堂なのです。極端にも聞こえるかもしれませんが、母を失ったといっても過言ではありません。
文化財や世界遺産に指定されているから貴重なのではなく、過去から現在まで、多くの人の心と技術の積み重ねでここまで残っているから貴重なのです。
日本人は元来、無宗教のように見えて汎神教だと私は思っています。今こそその心を取り戻して、悲しむ遠い友人に寄り添う時なのだと思います。(文◎Mr.Tsubaking)