しだれ桜と山桜が美しい岡山県貝尾集落の春。
"廃村"と"田舎"の境界に位置する"村"のことを、僕は勝手に"隠れ里"と呼んでいる。時には時代に取り残されて、時には過疎化が進んで、また時にはある"因縁"や"事件"ゆえに行き着いた果てに、"隠れ里"は存在している。
僕はそんな"隠れ里"を訪ねるのが好きだ。そんな"隠れ里"と、その土地に隠された"奇譚"を、これからいろいろ紹介するとしよう。
まず最初に紹介する"隠れ里"は岡山県と鳥取県の県境に近い山間にひっそりと存在する「貝尾(かいお)」だ。貝尾と聞いて、すぐにピン!とくる人は、ある意味、事件ものの"通"と言っていい。
そう、貝尾の集落では、今から七十七年前の昭和十三(一九三八)年五月二十一日未明の闇の中、村に住む二十二歳の若者が、日本刀と猟銃を駆使して、村の半分近くの家を襲撃。村人の三分の一以上にあたる三十人を一時間半ほどの間に殺害する"津山三十人殺し"が発生したのだ(死者のうち二人は隣村の住人)。
犯人の名前は都井睦雄といい、犯行直後、近くの山に逃れ、山頂で猟銃自殺を遂げた。睦雄の出で立ちは、黒襟詰の学生服風で、足元はゲートル(脚絆)で固めていた。右手に日本刀、左手に自分で改造した特殊猟銃を持ち、頭にはハチマキを締め、額の両側にナショナルの懐中電灯を固定していた。
そう、横溝正史の金田一耕助シリーズの『八つ墓村』に登場する大量殺人犯の格好にそっくりなのである。
実際、横溝正史は"津山三十人殺し"をヒントに、『八つ墓村』を書き上げたと言われる。正史は太平洋戦争中、岡山に疎開していたからだ。
犯行の動機や経緯については、犯人が自殺してしまったこと、そして戦争中ということもあって、謎が多い。しかし、睦雄の残した三通の遺書などから、村に残る"夜這い"や"姦通"の習慣が、少なからぬ影響を与えたのではないかと言われている。たしかに睦雄は、村の中の十代から四十代までの十人余の女たちと性的な関係を持っていたといわれており、事件の被害者の多くは、睦雄と関係した女たちと、その係累だったからだ。
この事件や犯人像の詳細については、今年二月に発売された拙著「津山三十人殺し 七十六年目の真実」(学研)の方を参照していただければ幸いである。これまで語られなかった証言や証拠をもとに、祖母と睦雄の間に血縁関係がなかったことが判明したことなどから、従来とは異なる事件の"真実"を提唱させていただいた。
かつて睦雄が暮らした家につながる細長い路地。
さて、事件のあった貝尾の場所だが、岡山県の旧:加茂町(現:津山市に編入)の山裾にある。加茂町は、周囲を中国山地の連山に囲まれた広大な盆地にあって、貝尾はその南西端、天狗寺山の麓にあった。天狗寺山は睦雄がひそかに射撃練習をしていた山である。
行政上の地名としては、二十一世紀の現在、貝尾は津山市に存在していない。だからといって、人の住む集落としての貝尾が消滅してしまったわけではない。貝尾の村は、今も字行重(ゆきしげ)内の一集落として、しっかり現存しているのだ。
事件当時、貝尾には二十二戸、百十一人の人々が住んでいた。睦雄は、そのうち十戸を襲撃したのだが、最初に自宅で祖母の首を斧で刎ねているので、実は半分の十一戸で殺人が起きている。そして、隣村の二人を除いた二十八人の犠牲者のほか、自身も自殺したため、貝尾では二十九人が一晩で亡くなったことになる。
出征して村に不在だったり、事件直前に睦雄から逃げるように引っ越した一家もいたことから、村の人口は一晩で七十人弱に減ってしまったという。
また事件後、睦雄の姻戚筋の一家、三家族がほどなく村から出ていった。たまたま修学旅行に出かけていて難を逃れた少年もいたが、親兄弟をことごとく殺害されて、こんな村にはいられない、と言って、やはり彼も出ていった。
事件後、人魂や幽霊が頻繁に出るという噂が流れたり、怪しげな呪い師が入れ替わり、立ち替わり、貝尾にやってきたりもした。貝尾は呪われた村と言われた。おそらく読者の多くは、こんな凄惨な事件があったのでは、ほどなく村から人の姿は消えて、廃村になってしまったのではないか。そう、想像する方もいるだろう。
しかし、貝尾の村は消えなかった。
それどころか、二〇一四年の現代になっても、貝尾は立派に存在している。人口こそ、三十人余りに減り、典型的な高齢者ばかりの限界集落になってしまったが、驚くほど、昔のままに、昭和十三年当時のままに、今も残存している。たしかに人は減った。
しかし、昭和十三年当時の建物(家屋や物置、札所など)は、今も何軒も残っているほか、住民の名字などを比べると、犯人の係累以外の大半の家は、そのまま被害者や、元の村人の係累がそのまま残って住んでいる。
だが、睦雄の家は今はもうない。しかし、奥地の倉見という村に行けば、まだ睦雄の生家はほぼそのまま残っている。
津山事件で親兄弟をすべて皆殺しにされて、男児が一人だけ残された家の子孫(その男児の長男が跡を継いで貝尾に現住)は次のように話している。
「そりゃ、家族みんな殺されてよ。嫌な思い出だよ。だけど、だからと言って、どこへ住めというんじゃい? ここにしか土地や家がないから、ここに住むしかないんじゃよ、わしらは」
五月の貝尾は、しだれ桜と山桜が美しい。ホトトギスの澄んだ音色が山間にこだましている。今、村を訪れても、誰もかつてここで世にも凄惨な事件が起きたとは、思えないだろう。
あの貝尾は、今もここにある。
Written Photo by 石川清
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