まだ廃村にはなっていない。人のぬくもりがまだかすかに残っている。そんな村や里を、僕は"隠里"と呼んでいる。
今から十年余り前のこと。大分県の温泉で有名な山間の町の片隅にひっそりとあり続けるNという集落を訪ねた。
このNという集落には、かつて"カミサマ"と人々に崇められた、ある若い女が住んでいた。僕は、その女の不思議な生い立ちと、その女が引き起こしたあまりにも奇妙で、奇っ怪な事件のことを、大分市の大学図書館で知った。それでわざわざ訪ねてみようと思ったのだ。
行ってみると、実にあっさりとしたものだった。かつての事件から数十年の歳月が流れ、その集落はあまりにものどかな、郊外の閑静な住宅地となっていた。
▲現在の村
その時、僕はちょっと残念に思った。不謹慎にも。多くの親族や地元の人を巻き込んだ、猟奇的な残虐殺人の起きた集落なのだから、もはや荒れ果てた村になっているのではないかと勝手に思いこんでいたからだ。
しかし、現地で地元の人にちょっと話しかけてみて、残念と思ってしまった自分の浅はかさを恥じた。表面的にはあっさりした風景の奥底に、恐ろしい過去はいまだにその傷口をあらわに、今も残存していたからだ。背筋がぞくっとした。
昭和23年初頭、カミサマがこの村に住む女の元に降りてきたという。そして、この女は次々と奇跡を起こした。
祈祷を行って、周囲の人の病を次々と治してしまったのだ。まず家族や親族が信者になった。ついで近所の人たちも次々と信者と化していった。医者のいない当時の寒村では、貴重な存在となった。
そして、事件が起きたのは昭和23年5月のこと。カミサマの名前はナミヨ(24)。そして、殺害された哀れな犠牲者は、ナミヨの従姉妹のハツヨ(20)で、殺害当時胎児をそのお腹に宿していた。ハツヨはつわりのような痛みや違和感に悩んでいて、うっかりナミヨにその悩みを相談してしまった。
「アタイが治してあげるよ」と、安請け合いしたナミヨ。
ナミヨとハツヨは祈祷部屋にこもって、二人の親族が入れ替わり訪れては、ナミヨの祈祷を助けた。祈祷は実に数日間続くこととなった。いつしかみんなトランス状態に陥っていた。その祈祷の最中にハツヨは次のように口走ったという。
「死んだ父がついておる。赤い池から来ておる......」
ナミヨは目を血走らせて、応えて叫んだ。
「なら、アタイが悪魔を退治してやる!」
祈祷はいつしか悪魔退治の奇怪な儀式と化した。ただ、実際の悪魔は、他ならぬカミサマと呼ばれた存在のほうだったのだが......。
ハツヨは、まず首を絞められた。身体全体をなぶられた。悪魔を追い出すためだ。なぶったのは、カミサマであるナミヨのほか、なんとナミヨやハツヨの親族たちだった。祈祷がしばらく続いた後、ナミヨがハツヨの姉にこう命じた。
「ハサミを3丁持ってきて」
そして、やがてハツヨを囲んで、ナミヨと、ハツヨの実弟、実母がそれぞれハサミを手にして座った。
「悪魔を取り除くにはこれしか方法はないよ......」
ナミヨがつぶやくと、3人はハサミを一斉にハツヨの膨らんだ腹部に突き立てた。警官がナミヨの家でハツヨの死体を見つけたとき、その頭の皮は剥ぎ取られ、下あごは深く抉り取られていた。舌べろも切り取られているらしく、喪失していた。腹は縦横に深く裂かれ、不気味な赤黒い空洞 が、ぽっかり穴をあけていた。
いたはずの赤ん坊はいなかった。ただ、空洞の肉塊があるだけだった。赤ん坊は、家の裏の畑に埋められていた。
僕がNの集落を訪ねたとき、驚いたことにまだ事件のあった家も残っていたし、赤ん坊が埋められた家の裏の畑も残存していた。
それどころか、事件を引き起こしたナミヨの家族は、その家にまだ住まい続けていた。だから、今回は仮名を使わせてもらうのを許してほしい。ただ、ナミヨはさすがにもういなかった。人は簡単に故郷や実家を捨てられはしない。特に昔はそうだった。
事件後、ナミヨは逮捕され、町祭りの時に市中引き回しのさらし者にされた。まだ戦前の処罰の感覚が残っていた時代だった。だが、ナミヨは精神疾患が認められて、無罪となった。しかし、事件はそれだけで終わりはしなかった。
▲市中引き回しのあった公園
事件は本当にカミサマが引き起こしたのではないかと思えるような展開をたどる。村を去ったナミヨにまとわりついて、さらに別の土地で悲劇や混乱を引き起こしたのだ。別の人に伝染していって。
僕は迷信の類は信じない。しかし、その僕が震撼し、あまりにも不可思議と感じた、数少ない事件が発生した寒村が、この大分県のNという村だった。
▲死体の埋められた裏庭の畑
(※事件の詳細は、拙著「元報道記者が見た昭和事件史」洋泉社を一読していただければ幸いです)
Written Photo by 石川清
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