再開したあいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』に行って感じた、止められないアーティストの創造力|久田将義
また抽選システムにしてしまった事で、限定の人しか見られず、本当に忌避の展示会のように見えました。オープンであるべき「表現の自由」に基づくアートが「自由に見られなくなってしまった」のはどこに原因があったのか。作家さんたちは残念に思っているでしょう(前述しましたが)。
河村名古屋市長にはアーティストは「理解不能なものを作り出すよくわからない人種」みたいなイメージがあるのではないでしょうか。確かに僕には理解不能な作品がたくさんありました。ただそれは僕に審美眼がないだけで、例えばバスキアの作品などもどこが良いのが分からないほどです。それでも、アーティストたちの「情熱」は理解しているつもりです。それを尊重出来ないものでしょうか。
アーティストの創作力を止めることなど出来るはずもありません。あるとしたらそれは「検閲」になります。
右翼民族派の人たちと、僕は交流を持って約二十年くらいになります。どうしても彼らが譲れない点は、天皇制護持です。
僕が取材した東日本大震災では被災者の皆さんが放射線の影響もあり、自分の故郷を捨てなければならない状況がありました。僕も彼らと接していると涙が出そうになりました。その人たちが避難している体育館に上皇が行かれ、言葉をかけられました。涙を流している被災者の方を見ました。上皇の行動はリスペクト以外の何者でもありませんでした。菅直人首相(当時)が被災者を体育館に見舞った際、罵声を浴びたのとは大違いでした。
で、そういった史観とは別にアートというものを捉えられないものでしょうか。今回、現代美術を初めてじっくり見て「楽しかった」のです。思想的作品はたくさんあります。美術だけでなく、小説も映画も演劇も。クリエイターの創作力を止めることは出来ません。何かを、アートによって表現出来るのは人間だけです。動物には出来ません。人間が人間たる所以です。ある右翼が僕に言っていました。
「結局、人なんだよ」
そう思います。再度言いますが、日本人が分断する状況だけは止めて頂きたいのです。「アートは楽しいものだ」。難しい事は言いません。頭の中をシンプルにして『あいちトリエンナーレ』で現代美術にふれてはいかがでしょうか。考えるのは観てから、帰りの電車や車の中でも良いと思います。(文◎久田将義)
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