再開したあいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』に行って感じた、止められないアーティストの創造力|久田将義
幸いにも当たり、入場する事が出来ました。入り口で持ち物をビニール袋に入れ身体検査後、スタッフから説明があり入場。
この過程が既に異様だなと思いました。さっきまで楽しかったのに。運営のせいなのか。電凸攻撃をしてきた人のせいなのか。メディアのせいなのか。アートを楽しく平静に見たいと思う人もいるでしょうに。
『表現の不自由展、その後』は確かにイデオロギッシユでした。それでも作品はアートとして成立していました。
平和の少女像も、実際に見ると可愛らしく感じました。作者の、人間の、息吹が感じられました。僕はそれを尊重したいと思います。作者の方が現場にいらっしゃって、最後に、
「今日は有難うございます。こういう段階を経てしか見られずに申し訳ありません」
というようなことを仰っていました。確かに残念に思われたのでしょう。皆に、広く見てもらえれば良いのに。それで、作品批判する人もいるでしょう。では、話し合えば良いではないですか。
僕が嫌なのは、国内が分断する事です。
例えば、ある写真家の作品が僕はたまらなく嫌です。というより許せないという感情さえ抱いています。ただ、その写真家の活動が制限・制止させられる事があるようなら、それには反対しようと考えています。
最後に大浦信行さんの「遠近を抱えて PartI」を鑑賞しました。テレビ画面(?)に20分ほどのショートムービーを流して、来場者(当選者)を集めて観るというものです。この作品が動画ではなく、ショートムービーなのだと勉強不足ながら初めて認識しました。
非常に抽象的で、何を表現しようとしてるのか理解しづらかったので、一生懸命、集中して観ました。昭和天皇のコラージュ(大浦さんの作品)が燃やされます。女の子が登場して、インパール作戦(太平洋戦争中、最も悲劇とも称される無謀な作戦)に向かう前に母親に書いた手紙を朗読。海岸で何個かのドラム缶が花火のように打ち上げられる……。多分、大浦さんの心象風景なのではと想像しました。
新右翼の作家、故・見沢知廉さん(僕も見沢さんとは知己で原稿を二回ほど担当しました)の映画も制作している大浦さんの事ですから、昭和天皇に対して「何らかの」想いを抱いていた事は想像に難くありません。愛憎なのかどうなのか、あまり浅薄な事を言うのはこの辺りで止めておきます。
とにかく、最初から最後まで鑑賞してから、意見を言うべきだとは思います。