欲望だけで家族を皆殺しにした鬼畜
永山則夫以来の19歳の死刑判決を受けた、関光彦死刑囚の死刑が2017年12月19日に執行されました。1992年に起きた市川一家四人殺人事件の犯人でした。
関光彦死刑囚の犯した罪状は非道というほかありません。僕が彼に興味を持ったのは、高校が隣の駅の堀越学園だった事。年齢がほど六歳下だった事で比較的その世代の空気感が分かる事。
彼の犯した非道は聞くに堪えません。
1992年2月、当時高校生だったAさんを通り魔的に襲い、凌辱し、彼女の自宅を聞き出します。それから金欲しさにAさんの自宅に行きます。Aさんの祖母がいました。祖母は関光彦死刑囚に抵抗しますが、彼は祖母を絞殺します。続いてAさんの母親が帰宅します。両親は共働きで編集プロダクションを経営。僕の古巣、ミリオン出版でも仕事をされたと聞いています。
母親が帰宅後、関光彦死刑囚は銀行通帳の在り方を聞き出そうとしますが抵抗され刺殺します。父親が帰宅するまでAさんをさらに凌辱。帰宅後、刺殺。通帳のありかを聞き出し、仕事場に印鑑を取りに行きますが、その時の雰囲気に異変を感じた社員が警察に通報。関光彦死刑囚は戻った後、Aさんの4歳の妹が泣いたので、近所に怪しまれると思い、またも刺殺。
この鬼畜行為に何の弁護があるのでしょうか。
被害者にとって加害者の生い立ちは関係ない
事件を最も地道に取材した「19歳」(永山隼介著)では「19歳だからまさか死刑とは思わなかった。近所の足立区綾瀬でおきた女子高生コンクリ殺人事件の犯人たちも少年で死刑にならなかった。俺もこれで少年院入りか、ぐらいに思っていた」(大意)という旨の供述が見られます。
彼の口から出た、綾瀬女子高生コンクリ殺人事件。関元死刑囚と同時代、そして東京都内の遠くない地域・足立区で女子高校が4人の未成年によって監禁、凌辱され殺害。江東区にコンクリで埋めたというもの。
検察が鬼畜と評した日本の犯罪史上最も残酷な殺人事件でした。4人とも既に刑務所を退所。普通の暮らしをしています。関はこの事件を知っていた訳です。
拙著『生身の暴力論』で指摘しましたが、この時期(1980年代後半から1990年代前半)にかけて、名古屋アベック殺人事件、木津川リンチ殺人事件など、少年殺人事件、それも想像を絶するような余りにも残虐な犯罪が集中しています。
関光彦死刑囚の生い立ちが父親からネグレクトされていた等の要因があり、自身もそれを告白しています。両親の離婚後、一時極貧の生活を送ったようです。が、それは言い訳になりません。同様の家庭で育った弟は犯罪を犯していないのです。
暴走族にすら入れない中途半端な小悪党
関光彦死刑囚は幼少期から窃盗をしつつ、ガタイが良く喧嘩もします。また車で煽られ相手ドライバーを鉄の棒のようなもので殴り怪我をさせます。同じ理由で大学生を「ヤクザだ」と偽って、金を巻き上げます。それ以前にも見知らぬOLを凌辱。
これだけ見ると、生粋のワルという印象を受けるかも知れません。が、関はバイト先で本物のワルに出会い、自分は小悪党だと自覚し恐れます。
同年代のこの地域、江東区や市川には中国残留孤児で結成された『怒羅権』などの暴走族が不良少年たちにとって脅威だったはずです。さらに渋谷、三軒茶屋から六本木にかけて『関東連合』(表現が難しいですが第二期関東連合としておきます)が台頭。
関のような中途半端な不良少年にとっては、彼らは恐ろしい存在だったのでしょう。10年以上、不良少年を取材してきた経験からいうと暴走族が犯す少年犯罪と関光彦死刑囚の犯行は位相が異なります。「綾瀬女子コンクリ殺人事件」「名古屋アベックリンチ殺人」なども同様の事が言えます。
関は暴走族にすら入れない中途半端な小悪党と言えます。
暴走族を取材するたびに「綾瀬女子コンクリ殺人事件」や「市川一家四人殺人事件」についての意見を聞いてきましたが、
「自分らとは全く世界が違いますね」
大体このような答えが返ってきます。
決して、暴走族を肯定する訳ではありませんが、彼らには彼の規律や美徳があり、関光彦死刑囚や前述の事件の犯人らはそれがありません。
関は本当に反省していたのでしょうか。いや、反省しても被害者は戻ってきません。
かろうじて生き残ったAさんは極刑を仕方ないと肯定しています。彼女のこの言葉に誰が反論など出来るでしょう。
この事件の位相は凶悪な不良少年が犯した犯罪ではなく、中途半端な小悪党(マイルドヤンキーという表現を僕は否定しています)が犯した愚かな残虐行為だと考察しています。
暴走族や不良少年は確かに怖いです。が、最も恐ろしいのは中途半端な小悪党や一般人が粋がったあげくの犯行ではないかと感じています。(文中敬称略、又、死刑執行されていますが関光彦死刑囚と表記しました)
文◎久田将義