●加害少女の家庭環境と生きづらさ
加害生徒の家庭環境は、父親が弁護士で、母親が東大出身で教育委員をするような、地域ではエリートの家庭だった。また、父親も加害生徒もスピードスケードをし、親子で国体出場まで果たしている。今年1月の栃木県での冬季国体にも出場した。
こうしたエリート家庭に育った場合、もちろん、この環境をうまく利用し、自らもエリート路線をひた走る子どもも多くいる。しかし、なんらかの生きづらさを抱えていた場合、例えば、家庭等から期待される人間像と実像が合わないものの、誰にも相談できずに、矛盾を抱えたまま育っている子どもも少なくない。
2008年の秋葉原通り魔事件の犯人も、エリート家庭であり、中学までは成績優秀。県内トップの高校に入っていた。母親も教育熱心だと言われていた。事件直前に犯人が携帯サイトに残した言葉は、「大人には評判の良い子だった/大人には」「いい人を演じるのは慣れている/みんな簡単に騙されているんじゃない」とつぶやいている。「良い子」「演じている」というキーワードは、まさに生きづらさを感じている若者達に共通するものだ。
2004年の小6同級生殺害事件のときは、加害少女がブログを書いていたことがわかったために、犯行前にどんなことを考えていたのかはある程度分かった。しかし、今回、加害少女のブログなどがまだ発見されていない。そのため、彼女が何を考え来たのかをまだわからない。
●キーパーソンの死
加害少女の心理として、母親のとの関係は重要だったのではないかと、私は想像している。現段階で母親との関係を示す供述は報道されていない。ただ、「お母さんが亡くなって、すぐにお父さんが別の人を連れてきた。お母さんのこと、どうでもいいのかな」(日刊ゲンダイ、7月30日)とも伝えられている。
母親ががんで亡くなったのは13年10月。加害少女にとって母親がキーパーゾンだったのではないか?だとすれば、大切な人が亡くなったにも関わらず、十分なケアがなされないまま、父親が再婚する。そんな状況のなかで、加害少女は父親に金属バットで殴り掛かった。母親の死をどのように受け止めていいかわからないでいるときに、父親が他の女を連れてくる。父親の子どもの心理を想像できなかったのだろう。金属バットで殴りかかってまで訴えたかったことは、母親の死を父と一緒にどう受け止めるべきかを悩もうという叫びだったのかもしれない。
キーパーソンの死後に事件を起こしたケースとしては、1988年の東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤(死刑執行済)を思い出す。父親は地物との新聞「秋川新聞」を経営。宮崎勤は町会議員をしていた祖父に育てられた。そんな祖父が88年5月に亡くなる。宮崎勤は祖父の死について「おじいさんが見えなくなっただけで、姿を隠しているんだと強く思った」「本当の両親は別のところにいるんだと、ぴーんとわかった」と語っている。そして、祖父の死後に事件を起こしている。祖父の死で宮崎勤の「犯行への道」が開いてしまったとも考えられる。
もちろん、母親の死よりも前に問題行動を起こしていたため、もともと加害少女は何らの生きづらさを抱えていたのだろう。それが環境的な要素なのか、精神的要素なのかは現段階では分からない。ただ、母親がいたからこそ、なんとか抑えられていたのではないか。それが母親の死でさらなる変化が出て来た。父親の再婚は、母親の痕跡を消すことにもつながると感覚的に思ったのかもしれない。加害少女にとって、父親の再婚は、母を2回殺すこととニヤイコールだったのではないか。
今回の事件でもキーパーソンの死によってフタが開いてしまったのではないか。そして父親の再婚で加速したとも思える。
Written by 渋井哲也
Photo by Rachel.Adams
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