【東日本大震災】大川小学校の"悲劇"は現地視察で明らかになるか

2015年12月17日 大川小学校 宮城県 東日本大震災 石巻市

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「先生、山さ、逃げっぺ。こんなところにいると、死んでしまうべ」。

 東日本大震災の当日、大津波警報が鳴る中で、宮城県石巻市の大川小学校の児童がそう言っていたとの証言がある。しかし、山に逃げることなく、校庭に51分間、待機していた。そして津波がくる数分前に避難行動を開始したが、児童や教職員は津波にのまれ、児童や教職員は死亡または行方不明となった。

 この児童の遺族のうち、19遺族23人が、「地震発生時の危機管理マニュアル」の整備が不十分など、安全配慮義務を果たさなかったためなどとして、県と市を相手にした損害賠償訴訟を仙台地裁(高宮健二裁判長)で起こしている。その関連で11月13日、現地視察が行われた。原告の遺族たちは「避難でき、救える命だったことが体感できたのではないか」と口を揃えた。

●現地視察には裁判長や原告側、被告側が参加

 現地視察は高宮裁判長や原告側、被告側が参加。非公開の進行協議の位置付けて行われた。報道陣は裁判所側から「(裁判長や原告、被告から)20メートル離れるように」と指示された。そのため、具体的なやりとりが聞き取れなかった。

 原告側は、14年5月19日の第一回の口頭弁論で、「3月11日に現場検証をすること」を求めていた。今回の現地視察は、日にちこそ違うものの、この求めに応じて行われた。裁判所が現地視察を行うことは異例だ。

 大川小は、追波湾にそそぐ新北上川の河口から約4キロほどの右岸、釜谷地区にある。全校児童は108人。このうち、74人の児童が亡くなった。また4人が行方不明のままだ。また津波にのまれながらも児童は4人助かった。教職員は10人が亡くなったが、当日休みを取っていた校長と、一人の教員が助かっている。

 市教委は震災後の5月に事故報告書をまとめた。聞き取り調査対象者28人のうち子どもが25人だった。しかし、市教委は聴取の際、録音をせず、証言メモも報告書作成後に破棄していたことを河北新報がスクープした。市教委では「心理的負担をかけない」ために録音や録画は行わなかったと同紙の取材に答えている。このとき、「山に逃げたほうがいい」という教頭と、「津波がここまでくるはずがない」という住民が言い争いをしていたと児童2人が証言したことになっている。

 大川小の「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」(当時)によると、地震が発生した場合は、まずは安全確保、安全確認、被害状況の把握につとめ、さらに保護者へ連絡をする。その震度が6弱以上を観測した場合は、原則として保護者に引き渡しとすることが決まっている。そして、

 第一次避難【校庭等へ】

 安全確認・避難誘導

 (火災・津波・土砂くずれ・ガス爆発等で校庭等が危険な時)

 第二次避難

 【近隣の空き地・公園等】

 安全確認

 となっている。検討された「近隣の空き地・公園等」の中に、「裏山」はあったと思われるが、なぜ、「裏山」の選択肢を取らなかったのかのは市教委の事故報告書ではわかっていない。

 また、その後に文科省の主導で設置された第三者の検証委員会の報告書では、裏山への避難について「比較的早い段階から提案として出されていたものの、避難先としての安全性が十分に確保できないとの判断が下され、その時点では津波に対する危機感を強く感じていないこともあいまって、山への避難は行わないという意思決定がなされたものと考えられる」としている。ただし、児童が「山さ、逃げっぺ」などと言っていたことは記されていない。

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 原告側はこの数日前から準備をしていた。校舎のほかの建物や道がどこにあったのかをテープで貼り、位置関係を再現していた。また「津波到達地点」との目印となる看板を作成していた。また、視察のポイントとなる地点では、震災前の様子がわかる写真を置いて説明した。その説明に使った木製の台も遺族が作成した。

 震災当日は地震発生後、雪が降っていた。風も強かった。しかし視察当日は晴れで、風は弱かった。そのため、気象条件が違っている。また震災当日は、大川小の校舎のほか、周辺には公民館や家々があったが、現在は、校舎のみしかない。そのため、視界の条件も違う。そのため、被告の市側は視察前に提出した準備書面で、「校舎2階からは川の水面は見えなかったことをご確認いただきたい」などと、条件が違い、当日の風景と違うことを強調していた。

 高宮裁判長らはまず校舎内に入り、地震が起きた時に児童らがいた教室を見て回った。天井を見ている様子もあったが、教室内の天井は津波の勢いによって、持ち上がっている箇所がある。そのため、津波の勢いがイメージできるようになっている。2階からは津波が遡上した新北上川や富士川が見える。その様子を指摘した原告側に対して、被告の市側は「当時はほかの建物があり、視界が良くなかった」旨の反論をしたという。

 児童たちは震災当時、校庭に約50分間とどまった。その後、新北上大橋のふもと付近、いわゆる三角地帯と呼ばれる高台に避難する途中で津波にのまれたと言われている。原告側は三角地帯はむしろ、津波に近づいてしまうことを指摘している。その上で、当日はスクールバスが待機していたことを含めて、避難できるはずの3つのルートを提示している。その3つのルートについて、高宮裁判長らは原告側と被告側の双方からの説明を受けていた。

 原告側が示している3つのルートは、Aルートとして、体育館よりの裏山がある。ここはしいたけ栽培をしていた場所であり、その場所で遊んでいる児童もいたと言われている。もっとも避難できやすい場所として、避難できた可能性がもっとも高い場所ではないかと言われていた。高宮裁判長は革靴のまま登った。原告側の弁護団が長くつを用意していたというが、裁判長は履き替えなかった。このとき、被告側から、11月5日時点では成人男性の膝上から腰あたりまでの高さまで草に覆われていた、と反論。現状を変更したにクレームをつけた、という。

 Bルートは、当時神社があった裏山で、生存した児童らが焚き火をして一夜を明かしたとされる竹やぶだ。このBルートは、現在は登り口が急だが、遺族によると、震災後に遺体捜索のために削り取ったためで、震災以前はゆるやかで登りやすかった、という。このルートにも高宮裁判長らは登った。

 Cルートは、フェンス脇からコンクリートのたたきを登るところだ。このあたりも児童や授業中に登っている。その様子が校長が撮影した写真に収められている。このCルートでは、フェンスをやや登ったところまで行ったが、Bルートの延長上にCルートがあるためにイメージができるからか、高宮裁判長らは登らなかった。

 ちなみに、校庭で児童が整列していた時点から3つの避難ルートまで移動にどのくらいかかるのかを別の日に原告側が調査を行っている。原告側弁護士によると、Aルールは徒歩では2分1秒、小走りで59秒、Bルートは徒歩で1分45秒、小走りで1分8秒、Cルートは徒歩で1分49秒、小走りで1分8秒だった。いずれのルートも遠いわけではない。

 小学5年生だった哲也君(現在、高校一年生)は奇跡的に助かったが、小学3年生の未捺ちゃん(当時9歳)を亡くした只野英昭さん(44)は、道や校舎以外の建物の跡にテープを貼り、当時の町並みを"再現"を担った。「土地勘のない人は裏山は急勾配だと思う。しかし、震災後、いろんな人がシイタケ栽培のところを登っている。登りやすいことを体感してもらった。竹やぶまで登ってもらえるとは思わなかった。震災1年前の6月24日に、3年生の子どもたちが(Bルートの)コンクリ2段目に登ったのは、(Cルートの)竹やぶから登ったから。あの日の子どもたちの動きを体感してもらえれば、救えた命だった。そのことがわかったと思う」と振り返った。

 小学3年生の香奈ちゃん(当時9歳)を亡くした中村次男さん(41)も視察に参加した。その中で、被告側が三角地帯で「ぜひ、慰霊碑をみてください。(学校のあった)釜谷地区の住民は多くがなくなっている」と高宮裁判長に発言したことに怒りをあらわにする。「市の主張は結局、釜谷の住民が多く亡くなったから仕方がないというもの。仕方がないじゃない。学校でしょ?『地域の人が亡くなったから児童もしょうがない』じゃ済まない」と言い、亡くなった児童の多くが学校管理下にあったことを重く見るべきだと話していた。

 一方、被告側の石巻市は、「予定通り、津波被災事故現場の状況を裁判所に視察いただきました。校舎・校庭の状況、裏山の状況、三角地帯の状況や位置関係等について、時間をかけてご確認いただきました。被告石巻市において特に見聞してもらいたかった場所もご覧いただけました。有意義な視察になったと思います」とコメントを発表した。

 視察前に提出した準備書面で市は「原告らは、教頭がA・B・Cの各ルートでの避難を指示すべきであったと主張しているところ、児童らが到達し、待機すべき場所として、教頭がどの地点を目的地として指示すべきであったとするのか、主張が明確でない。見聞の際、裁判所において、避難の目的地点とするに適当な場所があるか否か、また、当該目的地点に至るまでの各ルートの傾斜に注意して、ご確認いただきたい」などとしていた。

 12月19日に進行協議が行われ、来年の1月までには主張を整理していく。そして3月以降に証人尋問が行われる流れだ。今後は、証人尋問が焦点となるが、生存教諭が証言台に立つのかどうかが注目される。

Written Photo by 渋井哲也

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