いつも意識散漫、頭がとっちらかっている
片手でドライヤーをかけながら、「やっぱり今日のメールの文章はやなやつに見えたかもしれない、無理にでも絵文字とか入れればよかったな」と思いながら、テーブルに置いたスマホで好きなアイドルの週末のライブ情報をスクロール、目はテレビの『アメトーーク!』を見て、ドアのむこうで「あとでアイス食べるー?」と聴いてくる家族に「食べる」と大声で返事をしました。メールチェックをしようとしてPCを開いたら、ドライヤーのコードにひっかかって並べていたヘアオイルや化粧品がなだれのように棚から落ち、うんざりしました。
時間をていねいに使うことに焦りがあって、なにかひとつのことをすることが苦手です。
楽しみにしているアニメを見るときでも、読みかけの本を読みながらだったり、溜まったメールの返信をしながらだったりしながら。とにかく、なにかひとつのことだけをしていると、「自分は時間を無駄にしているのでは」という強迫観念にかられます。
だからといって、人一倍の集中力があるわけでもありません。
ひとと会話をしていても、神妙な顔で熱心に聞いていつつも、気がつくとその人のうしろの壁紙の模様を分析していたり、天井のシミはいつごろからあったものだろうと考えていたり、隣のテーブルの会話に夢中になっていたり、店員さんの注文の声で、ああ、さっき入ってきたお客さんはメロンソーダを頼んだんだな、ここのはグラスがでかいからたくさん入っていていいよね、そういえばこのお店のアイスおいしいんだよな、それならわたしはクリームソーダがいいななんて考えはじめたりしています。
「わたしもクリームソーダ頼もうかな」
ついうっかり、声に出してしまい、会話の相手は「え? 急になに、っていうかわたし"も"ってなに」とびっくりしました。あーまたやった...と思いながら、なんとかごまかします。「いや、なんか、急に思いたって...」
いや、ごめん、ちゃんと話しを聞いているんだけど、ちょっと.いろいろあって別のテーブルの人がメロンソーダを頼んだからそこから連想をして...なんてとても言えません。
同時にいろいろなところに意識が散漫してしまいながらも、話しを聞いていないわけではないので、相槌もうつし、相手の目も見ています。それなのにまさか、わたしが別の席の注文を聞いていて、天井のシミのことを考えていたなんて相手は思ってもいないでしょう。
結局、意識散漫のまますべてがやりかけの中途半端になり、荒れていく部屋に座って泣きたくなることがあります。
あれ? なんだったんだっけ? をくり返し続けるむなしさ
小学校のときも、文章問題を読んでいるうちに意識が散ってしまい、何回も読み返さないと文章の意味がわからなかったり、めいっぱい集中をしているはずなのに家に帰ってからなにをするかということや、いちばん早い帰り道のこと、今日休んだともだちのことを考えはじめてしまい、回答をするのに重要な単語が目に入らず、答えのでない難解な問題にしてしまっていたりしたことを思い出します。「なんでこれを見落としちゃったのかな」という先生の声、こころにのりかかります。
なんで見落としちゃうのかわたしが知りたい...。自分が気をつければいいだけのこと、そんなことは言えません。
どんなに気を張り続けても、「今度こそ」「今日こそ」と意識をしっかりともっていようと思っても改善しませんでした。人の話しを真剣に聞いていたはずなのに、気づくとまた頭の中が忙しくなってしまって、あれはどうなったんだけ、あれ? これってどうしただっけ? という頭のぐるぐるが湧き出てきます。
そうなると、真剣に聞いていたはずの話しも、あれ? なんだったんだっけ? となってきて、混乱して慌てて焦るし、なにより「今度こそ」と思ったのにまただめだったという事実が積み重なり、どんどん悲しくなるし、どんどん自分を嫌いになります。
わたしの話しなんてそんなに熱心に聞かなくても怒らないから、あなたの話しを聞きながら気がゆるんでも許してほしい。そんなことが通用しないことは、わかっています。
楽しいことを「楽しい」とだけうけとめられない
たとえそれがどんなに楽しい時間でも同じです。
さっき読んだネットニュースのこと、次に読みたい本のこと、地面に落ちているゴミのこと、会話に返事をした自分の声が小さすぎて聞こえなかったんじゃないか、違う言葉に聞こえやすい単語を選んでしまったばかりに相手が誤解しているんじゃないか、あの仕事のしめきりって明日とあさってとどっちだっけ、玄関にハガキおいたんだっけそれとももう出したんだったかな、こんなに楽しいけど相手はほんとうはもっと会いたい人がいるのでは......全身をいろいろな声がかけめぐります。
目の前の楽しいことに集中ができず、楽しいを楽しいだけで受け止めることができないことにとても悲しくなります。
もちろん、散漫しつづける意識にふりまわされているので、体も脳も疲れはてます。
家に帰ると、ベットに埋もれて一瞬だけ「はぁ」とため息をつき、あわてて飛び起きます。なにかしなきゃ、人と会ったり会話をしたり、ニュースを見たり本を読んだりしていないと。そんなプレッシャーが湧き上がってくるのです。
学校に毎日行けなかったころの、「友だちと過ごす放課後」「部活や学校行事」をちゃんと体験していない自分は劣っていて、人生にあるたくさんの空白の時間をまだ取り戻せていない。
わたしは必要以上にそう思い込んでいて、自分の人生に劣等感があるのかもしれません。
頭の中に教授がいます
頭の中がいそがしくなったのは、いつからだったのか思い出せません。
ただ、気づくと頭の中には教授がいました。
教授といっても、明確に先生が見えるというわけではなく、ただいつでもぼんやりと自分をおとしめる声や、自分の行動の批判をくどくど話しているような気がするのです。それはつっこみとして聞き取れるときと、なんとなく接続詞だけが聞こえて、"脳みそがなにかを話しているような感覚"になるときもあります。話しているように感じるだけで、おそらくずっと落ち着かない気持ちというのがいちばんしっくりくるかもしれません。
その構図がなんだか、延々と続く授業の講義のように感じるので、教授みたいだなと思っていました。
教授のことをはじめて話したのは、あるインタビューを受けたときでした。
漫画家の菊池真理子さんの『毒親サバイバル』という漫画のうちの1話に取り上げてもらったときのことです。
ストーリー構成を決めるための取材中。幼少期のことを話しながら、話しの流れでふいに「ずっと自分の頭の中がいそがしくて、教授がいるんですよ」と言ってしまいました。瞬時に、これは笑われたりつっこまれたりするレベルのやつだ...と後悔をしたら、「わたしも! わたしも教授がいるの!」と菊池さんが驚いて声をあげました。
わたしは、同じようにずっと頭がいそがしくて、しかもその現象に同じ呼び名をつけている人がいることに驚き、さっきまでの後悔が吹き飛びました。そして、教授が自分になにを言ってくるかについて話しあっているうちに、ずっと悩んでいたことだった教授問題なのに、涙が出るくらい笑ってしまいました。
電気グルーヴを聴いて自分と自分が一致した瞬間のこと
ソファに座って本を読みながら、あたまの半分で流れる教授からのありがたい自己卑下にイライラとしていたら、なにも知らず部屋に入ってきた家族が電気グルーヴを流しはじめました。
ふいに、「あー、懐かしい...トーマス・シューマッハのリミックスバージョンのかっこいいジャンパーはやっぱり超かっこいいよなぁ...」と思って気がつきました。
わたし、今、頭の中と感じたことが一緒になっている。
「トーマス・シューマッハのリミックスバージョンのかっこいいジャンパーはかっこいいよなぁ」と感じて、頭の中も「トーマス・シューマッハのリミックスバージョンのかっこいいジャンパーはかっこいいよなぁ」ということだけでした。
そこには教授も聞いているわたしも存在しません。
いつも気になる誰かの講義も、「ソファになんか座っちゃって、そんなに浅く座ってだらしないな」なんていう自分へのつっこみも、「今日の電話、急いででちゃったから声が大きくなっちゃって、みんなうるさいって思って目立ってしまっていたかな」という自分の今日いちにちの行動への反省も、全然聞こえません。
頭がうるさくないだけで、自分と自分が一致したような気がしました。
わたしはもっと外に出なくてもいいし、人に会わなくてもいい
そういえば、学校に毎日行くことができなかった学生時代、ずっとこういう音楽だけ聴いていました。
誰かに見られる自分のことを気にせず、ただひとり部屋にいて、会話もせずぼんやりと音楽を聴いていた。この感覚を思い出したのは、ずいぶん久しぶりです。ずっと長いこと、自分はだめだから人と関わり続けなくてはいけない、ひきこもっていたりひとりでいた時間を取り戻さなくてはいけないと焦って生きてきました。生き急がないと死んでしまうような気がしていたからです。
けれど、わたしはもうひとりでいる時間があっても死なないし、たとえばなにもせず音楽を聴いていたっていい、ぼんやりしている時間は無駄だからなにかをしなくちゃと焦って、疲れているのに無理やりお化粧をして出かけなくてもいいのではないだろうか。
そう気付いたら、ハッとしました。
今の自分は今の自分。時間は昔には戻らないからです。現に、今日は風邪でいちにちパジャマから着替えもせずにゲームをしていたけれど、このまま家にいて誰とも会いたくないとは思っていないからです。めんどうな仕事も、休みの日に行きたい場所も、楽しみにしている予定も、消えてなくなったりしていません。当然、昔の自分にも戻っていません。
わたしは、もうすこし、ひとりでいる時間を持ってもいいのかもしれない。
そして部屋にとじこもっていてもいいのかもしれない。
生きているだけで脳内が言葉の戦争のようになってしまって、「こう言いたいけど/でも言ったら相手からしたらありがた迷惑だろうか/でも役に立つ情報かもしれない/でも自分ごときが/でも...」と、頭の中をずっと飛び交っている言葉が邪魔になりすぎるから、ときにはシャットダウンしてしまうことも必要なのかもしれません。
わたしにとってはそれが言葉の意味を考えなくてもいいような音楽でしたが、人によってはお風呂に入ることだったり、眠ることや散歩、はたまたマニキュアをぬることかもしれません。
ずっと人生の空白を取り返すことに必死になってたけど、わたしはもっと外に出なくてもいいし人に会わなくてもいい、それを許していいんだ。
そう思ったら急にほっとしたのでした。
(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第二十九回)
文◎成宮アイコ