止まったままの時計......。
東日本大震災で児童と教職員84人が死亡、または行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の避難や事故対応を調べる第三者機関「大川小学校事故調査委員会」(委員長、室崎益輝・関西大学教授)は7月18日、「中間とりまとめ」を発表し、ウェブ上に公開した。客観的事実は書かれているが、当日、教員集団や児童たちがどのように動いたのかの検証はない。
【参考】大川小学校事故検証 中間とりまとめ http://www.e-riss.co.jp/oic/_src/sc446/91E590EC8FAC8Aw8DZ8E968CCC8C9F8FD892868AD482C682E882DC82C682DF.pdf
大川小は、石巻市の中心部から車で約30分の距離で、新北上川の河口から約4キロに位置する。在籍児童108人のうち、70人が死亡、4人が行方不明。教職員は13人中10人が死亡した。当日、校長は学校におらず、用務員1人は津波到達前に外出した。津波到達後に生存が確認された教員は1人だった。
●検証のポイントは事前対応と避難状況、事後対応
検証の論点は、津波を意識した防災対策が行なわれたか等(事前対策)と、当日の避難状況、事故後に市教委や学校がどのように遺族らに説明したか等(事後対応)の三つ。津波到達時間などの"客観的事実"は記されている。校舎付近に津波が到達した時刻は、これまで複数の時計の停止時刻から推定した「15時37分頃」ではなく、関係機関の無線交信記録や目撃証言から「15時31~33分頃」と推定した。しかし、教員集団の意思決定のプロセスの記述はない。
そもそも第三者委員会が設置されたのは、震災当初、学校長(当時)の対応が誠実と受け止められなかったこと、生存した教員の証言が、周辺住民や生存した子どもたちの証言と矛盾することがあり、それをた質す機会がないこと、これまで市教委や学校側の説明が遺族らが納得できるものではなかったことが大きい。つまり、遺族らへの事後対応が十分なものではなかったのだ。その意味で「中間とりまとめ」で、事故対応の項目がなく、納得いくものではない。
生存した児童の証言を早く聞いてほしいと遺族が要望したが、聞き入れられなかった。これは会見でも委員会が明らかにしたように、調査の手順として、核心部分を最初から調査するのではなく、周辺部分を優先する方針を取っているためだ。生存児童と生存教員の心理的負担を前提としているからだ。一方、自ら「証言したい」と言っている生存児童の気持ちも考慮していただきたい。
●公開原則だが、カメラ撮りは途中まで
マスコミとの関係も必ずしもよいものではない。今回は「原則公開」だが、第一回目からマスコミと委員会の対立が見られた。事務局側が冒頭のカメラ撮りしか許可しなかったからだ。さらにいえば、会議のはじめに黙祷がなされるが、撮影するカメラのシャッター音がうるさいと、二度、委員がクレームをつけている。そのうち第三回の会合では、黙祷をやり直した。
しかし、マスコミ側との交渉により、第一回目は委員長選出までは許可された。第二回目では遺族の訴えはカメラ撮りがなされたが、その後の実質的な議論では許可されなかった。第三回でも前半部分のみだった。室崎委員長は選出時の挨拶で、「行政と被災者と専門家とメデイア、この四者は対等でしっかり協力し合わないといけない」と述べていたが、「公開原則」の意味が一致できなかったことは残念だ。
●時間がかかりすぎる検証
震災当時から2年5ヶ月が経ち、時間がかかりすぎている。委員会を傍聴していた遺族の中には「まだこんな段階なのか?」と落胆する声も聞こえる。遺族の中には、発災当時から検証をしている人たちもいる。そうした立場から見れば、当日の状況については、踏み込んだ中身がまだない。人の記憶が薄らいだり、変わりうる。そのため遺族はいらだちを隠せない。遺族への報告会では「笑っている委員、意見を言わない委員がいる」として、委員の解任を求める場面もあった。
もちろん、まだ「中間とりまとめ」であり、これ以上わかっている部分でも今後の調査に支障がある部分については公開していない。そのため、本来は調査はより進んでいるものと思われる。遺族の中には、充実した検証を求める人だけでなく、検証に否定的な人たちもいるといった複雑な問題もある。
そんな地域の人間関係の舵取りをしながら委員会はすすめていく。委員の一人で、弁護士でもあり、鉄道安全推進会議の事務局長で、JRに資本の福知山線脱線事故の事故調査委にかかわった佐藤健宗さんは「基本的には、検証委員のメンバーは熱い思いを持っているし、被害者に寄り添おうとという原点は持っています。信頼してほしいです」と話していた。
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Written Photo by 渋井哲也