【震災遺構】南三陸町「防災対策庁舎」の保存問題は年内に結論へ

2014年11月19日 復興 東日本大震災 震災

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 宮城県南三陸町志津川の町防災対策庁舎(画像=14年7月12日撮影)は、赤い鉄骨と、玄関入り口の屋根だけが残されている。玄関には折り鶴や供物が置かれ、線香も焚かれている。東日本大震災の遺構が次々と壊されているが、村井嘉浩宮城県知事が防災対策庁舎の保存を検討。有識者会議の結論を待つ。

 そんな中、「南三陸町防災対策庁舎を考える町民運動」は18日、町に対して「話し合いの場」の設置を求める署名を提出した。しかし、町は「すでに解体を決めている。受け取る立場にない」(総務課)として受け取らなかった。

「南三陸町防災対策庁舎を考える町民運動」は、防災対策庁舎に関して、町内では「保存」「解体」「結論を出すまで十分な議論」という三者三様の意見があるため、「さらなる議論の場の設置」と「議論を進める時間の確保」を求めている。町内の署名は90筆だが、町外からは1440筆が集まった。町と、保存を検討している県の震災遺構有識者会議に書名簿を提出する。

 2011年3月11日の東日本大震災の発生時、南三陸町は津波が6メートルという予想だった。町防災対策庁舎は3階建て。そこの2階の危機管理課に町災害対策本部が置かれた。同課の女性職員は無線で避難を呼びかけ続けた。しかし、15時25分ごろ、本庁舎に津波が襲った。そこで放送は途切れた。呼びかけた女性職員は死亡した。屋上には約30人が避難し、佐藤仁町長ら11人が生還したが、ほかの職員や住民は犠牲となった。

 震災後、骨組みだけとなった町防災対策庁舎は、モニュメント的な存在になり、多くの観光客が訪れている。保存を求める声があり佐藤町長は保存方向を示していた。しかし、町防災対策庁舎は悲しみの象徴でもある。町民からは「解体」「保存」「解体を先延ばし、十分な議論を」という3種類の請願が町議会に出された。議会では「解体」のみを採択。佐藤町長も「解体」を表明した。

 しかし村井知事が「県民全体が関心を持っている」などと言い、国に対して保存費用を要請していた。復興庁も震災遺構の保存に前向きとなり、保存費用の一部を助成することになった。県の震災遺構有識者会議で現在、保存するかどうか議論中だ。町では、「有識者会議で議論の間は手をつけていない。しかしすでに町では、3つの陳情が出て、議会としても、町長としても解体と結論が出ている。受け取る立場にない」として、署名は受け取らなかった。

 また、県庁も訪れて、有識者会議の事務局に署名を提出し、受理された。有識者会議では年内に結論を出すことにしている。

「町民運動」の発起人の一人、佐々木光之さんは「あの場所でお子さんを亡くされた御夫婦もお互いに逆の意見を持つ。それだけデリケートな存在だ。それぞれの意見を表明しあう、ゆるやかな話し合いの場が持てないかと思ってスタートした署名活動です。壊す前にもう一度立ち止まり、色々な立場からの意見を出し合う機会をぜひつくって頂きたい」と話していたが、町が受け取らず疲れている様子だった。

Written Photo by 渋井哲也

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避けては通れない問題。

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