東北被災地の震災遺構は保存か解体か? 南三陸町「悲劇の象徴」の気になる処遇

2013年11月23日 復興 東日本大震災 震災

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 大津波の被害にあった「震災遺構」について、保存か解体かで悩む被災自治体がある中で、復興庁は15日、国の支援策を発表しました。懸案だった「維持管理費」は国費では出さないものの、保存にかかる初期費用について支援することになりました。また、保存か解体かが決まっていない遺構については、決まるまでは保存費用を支援することになりました。

 震災遺構のひとつ、宮城県南三陸町の防災対策庁舎は、町の職員が最後まで避難を呼びかけたことで知られています。呼びかけていた職員は、町の危機管理課の遠藤未希さん(24)です。地震直後、まだ大津波警報が出されていないタイミングでも、「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますので、高台へ避難して下さい」と呼びかけていました。

 かつての津波の経験のある地域では、大きな地震があったら、津波がくるかどうかはわからない段階でも、高台に避難をした人が多くいます。私も震災後に、津波からの避難のタイミングについて様々な人に聞いたのですが、「地震が収まってから」と言う人がかなりいました。そして「津波がくるかどうかはわからなかった」とも言っていました。こうした予防的な行動は、三陸地方に住んでいる人の条件反射のようなものだったのかもしれません。遠藤さんの呼びかけもその一つだったのでしょう。

 しかし、すべての人が地震後に高台に避難したわけではありません。避難をしていない人に遠藤さんは呼びかけ、大津波警報が出た後でも、「最大で6メートル」と呼びかけたり、最後のあたりでは「10メートル」と変わっていきました。呼びかけは全部で62回。このうち、18回は佐藤智係長が行なっていました。

 この話は、南三陸町での悲劇の象徴でもあり、最後まで町民の命を守り続けようとした職員として記憶に残っている人も多いかと思います。遠藤さんは10年に結婚したばかりで、11年9月に披露宴を開く予定だったといいます。

 ちなみに、この遠藤さんや佐藤係長を含めて33人の職員が公務中に亡くなりました。遺族は特殊公務災害を申請しましたが、33人中32人は、「直接的な大きな被害が及ばない場所であると認識されるべきものと考えられる」などとして、不認定となりました。

 一方、町防災対策庁舎の解体を巡っては、町議会に対して「保存」「解体」「十分な議論を」という3種類の請願が出されました。結局、町議会は「解体」のみを採択しました。これを受けて、佐藤仁町長も解体を表明していました。しかし、村井嘉浩・宮城知事が防災対策庁舎の保存に前向きな姿勢を示し、国に財政支援を求めているため、解体は見合わせていました。

 保存を巡っては町民の間でも議論が成熟しておらず、「議論の場をつくろう」と町民グループがつくられました。町民グループは「南三陸町防災対策庁舎を考える町民運動(グループ)」で、学習塾経営の佐々木光久さんら3人が発起人となりました。

「いよいよ待ったなしです。これまで町は話し合いの場を準備してきませんでした。争点にしたくないということで、(10月の選挙でも)意思表明の場はありませんでした。ほっておかれたんです。遅いかもしれないが、このままなくなっていいのでしょうか」

 佐々木さんがこの問題に取り組もうと思った一つに、チリ津波を両親が経験し、長女を亡くしたことについて、以前のテレビインタビューで聞いた。そのとき、「チリ津波から半世紀以上が経ったが、時間の解決がすべてではないことを知った。遺族の感情はデリケートなものだってことは、生まれながらに経験している」と言います。

 グループでは、町内外の運動の賛同者とつながりながら、活動をしていく。「南三陸町防災対策庁舎を考える町民運動(グループ)」への問い合わせは、佐々木さん(電話:090ー7076ー6386)まで。

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Written Photo by 渋井哲也

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