私事で大変恐縮なのですが、実家に帰ったおり、亡父の走り書きを発見しました。終戦当時、亡父は15歳、多感な時期です。30年前に亡くなりましたが墓参りに行くと、墓地には第二次大戦で亡くなった墓があり、亡父の故郷、小さな漁村にも徴兵があったのだと暗たんたる気持ちになります。
8月15日は終戦記念日(敗戦記念日とするべきとの声もあり)です。当時の地方の中学生は玉音放送をどのように聞いたのか、国民の雰囲気はどのようだったのか。掲載してみたいと思います。亡父の故郷は伊勢湾に面した小さな漁村です。走り書きは便せんにつづられていました。原文ママで書き起こしてみます。当時の世の中の雰囲気の一端が分かればと思います。亡父は完全に体育会系で柔道や空手などを身につけていました。一言で軍国少年だったようです。
開戦
「大本営発表!! 我帝国陸海軍は本12月8日未明、太平洋上において米軍と戦斗(ママ)状態に入れり!!」つづいて、眞珠湾攻撃の戦果がラジオを通じて聞こえて来た。ヤッタ!! ヤッタ!! 家中、皆で興奮したのを憶えている。当時はAmerica British Canada Dutch ABCD包囲網といって日本を取り囲んでぐりぐりとプレッシャーのかけた状況で爆発したのが大(ママ)二次大戦であった。極東の小国日本が世界の列強に伍して行く為に明治以来とった富国強兵策の行きつくところであった。
行き過ぎではあったけれども小国日本が急速な発展を遂げ、世界に日本ありと認めれたのは、良きも悪くも一つにこの政策の成果であった。戦後、その伝統が富国強兵策として受け継がれ、今日の繁栄をもたらしたことは言うまでもない。あらゆる困難を克服して豊かな日本を築き上げた先輩達、我々であるが、近頃、新聞紙上を賑わす情けない若人たちが果たして苦難に直面した時は、我々のように歯を食いしばって頑張ってくれるだろうか。勿論、よき伝統を受け継いでくれるに足りる立派な若者が多くいるということも知っているがいささか心配な今日この頃である。ソ連のこと
敗戦近くになって不可侵条約を結んでいたソ連が約束を破って満州にいた日本軍に攻撃をしかけてきたニュースは我々にとって最も大きなショックの一つであった。世界で最も信頼出来ない大国であるという印象は私の脳裡から拭い去る事が出来ない。
食糧難
漁村であったため多少の魚で栄養をとる事が出来たが、米がなくなり「水とん」というメリケン粉の団子少々に汁の多い喰べ物の食事が毎日続き、又、あらゆる必需品が配給制になり、衣服等ツギ修理をして着用した。ツギハギだらけの衣服は当時普通であった。
柔道部に入っていたためそれでも練習中は空腹は感じなかったが、終わるといっぺんに空腹になり、辺りに食べ物を売る店もなく、水をガブ飲みし(あっても売るものがなかった)一目散に家に帰り、芋のくき、カボチャ等を喰べて一呼吸する毎日であった。グラマン艦載機に追いかけられた事
「空襲警報」が発せられると学校は下校となる。勿論すべての交通機関はストップする。学校から約10キロを徒歩で帰宅するはめになるわけだが、途中色々な恐い目に遭ったが中でも恐かったのが2つある。
1つは10人位がつれだって歩いていて上空に物体がいるのにハッと気が付くと敵機グラマンであった。しかもハッキリと操縦士の顔がみえたのには驚いた。それ程低空飛行をして接近して来たということになる。今こうやって書くと何でもないように聞こえるかも知れないが操縦士の引き金が引かれたと思うとぞっとする。もう1つもグラマンに追いかけられた話であるがこれは省略する。敗戦
8月15日、真夏の太陽がじりじりと照りつける8月15日を一生忘れる事は出来ない。天皇陛下の放送があるというので友人と2人でラジオの前に座った。初めて聞く天皇の声はがっかりするような間延びした迫力のないものだったけれども(もっと雄々しい声であって欲しかった)内容はどうやら日本が敗けた!! と感じた。二人ともボロボロとこぼれる涙を止める事が出来なかった。
(文◎久田将義)
【関連記事】
●ザ・ご都合主義!の安倍政権 喉から手が出るほど欲しい外国人労働力をかすめ取る愚策を閣議決定
●「なかった事に出来る」安倍首相動静から見る『赤坂自民亭』騒動|プチ鹿島
●再検証・「山根明会長はやっぱり組員だった?」を六代目山口組系組長に聞いてみた|久田将義