岐阜県の山の中、東白川村はツチノコ騒動があった場所。村にあるツチノコ館には、ツチノコのミイラとされるものまで展示されています。
ツチノコも、未確認のロマンにあふれ魅力的ですが、今回はこの村の悲劇の歴史をたどる珍スポット探訪です。
東白川村の役場前には「南無阿弥陀仏」と彫られた碑がたっています。大きな碑は、彫られた一文字ごとに一升の米が入るとされたことから「ごいっしょうさま」と呼ばれて村人から愛され崇められていました。
それだけであれば、どこにでもある石碑ですが、よくご覧ください。
真っ二つに割れています。
実はこれ、割れたのではなく「割られた」のです。しかも、この石碑に手を合わせていた人たち自身の手によって。
割られた石碑が物語る歴史とは。
まず知っておいていただきたいのは、この東白川村は、日本で唯一お寺のない村だということ。
かつては常楽寺というお寺があり「ごいっしょうさま」は、その山門の脇に建てられていました。しかしお寺は、明治時代になくなってしまったのです。
神仏分離令。
明治時代に発布されたこの法律は、それまで一緒くたに祀られていた神と仏(神社とお寺)をはっきりとわけるというものでした。浅草寺というお寺の中に浅草神社があるのは、その名残。
神と仏を一緒に祀る「神仏習合」は仏教が伝来した6世紀から明治時代までのおよそ1300年にもわたり、日本人が繋げてきた信仰の姿でした。それを明治政府はこの法律で分断したのです。
法律としての記載は、単に神と仏をわけるというだけのものでしたが、政府が国の宗教を神道としたことで、仏教は悪であるという流れができました。
そうして、仏像やお寺を燃やし壊してしまう「廃仏毀釈」が全国にひろまっていきます。破壊の手は、この山の中の小さな東白川村へもおよび、村内のお寺はことごとく破壊の憂き目にあったのです。
廃仏棄釈の波は十年ほどで過ぎ、都会にあったお寺は徐々に再建されていきましたが、この小さな村にはそんな体力も経済力もあるはずがなく、以来、現在は日本で唯一お寺のない自治体とりました。
破壊と炎にまみれた廃仏棄釈。その手が東白川村に及ぶ直前、村の人たちは、毎日、朝な夕なと手を合わせていた南無阿弥陀仏の石碑「ごいっしょうさま」の行く末を案じていました。
そして、自らの手で先に破壊して隠すことを決めたのです。横へ回ってみると、石碑はこうなっています。
4つに割れているのです。
東白川村の人たちは、ごいっしょうさまを4つに割りました。
毎日手を合わせていたものを割るなんて、どれだけ心がいたんだことでしょう。そして、その破片を庭石や石段の1つのように見せかけ(バレないように石段として石碑の破片を踏むことの悲しみよ)、廃仏棄釈の目をすり抜けたのです。
数十年後、廃仏棄釈の波も過ぎさった後に、散りぢりになっていた4つの破片は再びあつめられ、もとの場所へ戻ってきました。しかし、ここに元々あった常楽寺は破壊され、村役場になっていたのです。
僕の父の実家は浄土真宗のお寺ですが、そのひいき目を抜きにしても、東白川村の人々の想いに、手を合わさずにはいられませんでした。
廃仏棄釈運動に壊された側としては確かに辛く苦しいものだったことは想像に難くありません。
しかし、それを経た現代、廃仏棄釈があったからこそ見える景色と学べる歴史があります。いいことも悪いことも、分断なく連綿と現代につながっていることを実感できる場所です
強い想いのつまった「四つ割の南無阿弥陀仏碑」、まったく観光名所ではありませんが、みなさんも一度訪れてほしいと思っています。(連載・Mr.tsubaking 『どうした!? ウォーカー』第九回)
四つ割の南無阿弥陀仏碑
岐阜県加茂郡東白川村神土548(東白川村役場前)
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