東京都世田谷区の都営下馬アパート2号棟に住んでいたのは、生まれた年の昭和42年(一九六七年)から小学校にあがる直前の昭和49年(一九七四年)の春先までのことだ。うちは六畳と三畳の二間に台所とトイレがついた2LDKで、父方の祖父母と叔母がすぐ下の階に入居していた。
最寄り駅は路面電車の玉川電気鉄道・三軒茶屋駅だけで、駅の近くには父方の親戚がやっている下駄屋と玩具屋と、東光ストアという当時まだ珍しかったスーパーマーケットがあった。
また、幼児の足でも片道5分とかからない目と鼻の先に《弘善湯》という銭湯があり、家族に連れられてよく通った。
銭湯はたいがい混んでいて、いつ見ても煙突から煙をたなびかせていた。
都営下馬アパートは広大な敷地面積と明治30年以来の歴史を誇った駒沢練兵場の跡地を利用して造られたマンモス団地で、あの頃は全627戸がきっちり埋まっており、しかも住人はみんな家族持ちだったのだ。そしてほとんどの部屋に風呂がなかった。
幼稚園の年長になったばかりの五月のある夜、母と三つ年下の妹と三人で銭湯に行った帰り道、脇に植えられていた柳の葉を叩いて遊びながら歩いていて、ふと気づくと独りぼっちになっていた。妹が泣くかおしっこを漏らすか何かして、母は私のことを忘れて急いで帰ってしまったようだった。
慌てて団地の方へ駆けだそうとしたそのとき、後ろから名前を呼ばれた。
「あきちゃん」
――私の名前ではない。しかし声は矢のように私の背中に突き刺さった。
おそるおそる振り向くと、すぐそこに凄まじく傷んだ平屋の建物があり、玄関の前に女とも男ともつかない真っ黒な人影が佇んでいた。
「あきちゃん、あきちゃん......」
団地の入り口にある街灯の明かりが届いているので、建物の玄関に漢字をつらねた看板が掛かっているのは、読めはしないがはっきり見えた。
それなのに、その人物だけが墨汁で塗りつぶされでもしたかのように全身が黒いというか、暗い。
そいつが私目がけて一歩、足を踏みだした。
――私は逃げた。後ろから「あきちゃあん」と声が追ってきて、涙がどっと溢れてきた。悲鳴をあげることも忘れ、無言で街灯の下を駆け抜け、五階建ての四角い建物が両脇に並ぶ中を走った。
団地特有の無機質な景色が、あんなに怖かったことはない。どの窓にも明かりが灯っているが、どれが私のうちだか咄嗟に見分けがつかなかったのだ。
それでもなんとか2号棟の出入り口にたどりつき、階段を三階まで駆けのぼると、うちの玄関が開いて母が飛び出してきた。
けれども安堵したのも束の間、母は私の顔を見るなりこう叫んだのである。
「あきちゃん!」
不可思議な想い出をたどって都営下馬アパートを訪ねたのはついこの前のことだ。
黒い人影に遭遇した平屋の建物は現存していた。
五歳のときには読めなかった看板の文字は《東京世田谷韓國会館》。
ここは第二次大戦中は野砲兵第一聯隊の兵舎だったのだという。
辺り一帯は軍事施設が多かったから、昭和20年(一九四五年)5月25日の山手大空襲では集中的に爆撃を受けて焼け野原になったそうだ。しかし野砲兵第一聯隊の兵舎は奇跡的に無傷で残って今に至る。
......それにしても「あきちゃん」て誰だろう?
母に尋ねても、そんな呼び間違えはしていないし、「あきちゃん」なんて知らないと言うばかりなのだ。
文◎川奈まり子
写真◎編集部
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