筆者が通っていた鷺沼小学校
熱中症による小学生死亡や、組体操の「十段ピラミッド」で事故が相次いだことなどから教育にかかわる見直しが相次いでいる。終業式をやるのはエアコンが効いた部屋、十段ピラミッドは廃止、といった形の決定を学校がすることだ。
今でもその風習が続いているのかどうかは分からないが、「昭和」を振り返る当コラムでは、「皆勤賞」を問題視したい。1973年生まれの私は1980年から1988年までを義務教育の期間として過ごした。冒頭の小学生による事故を含め、いかに学校教育がヘンテコかを1歳下の弊社社員・Y嬢と話していたところ、彼女はこう言った。
「今もあるのかは知らないけど、私達の時って"皆勤賞"ってのがあったよね。これってヘンじゃない? だって、休まないのがエライっていう発想だよ!」
確かにそうだった。私は子供がいないため、今現在、義務教育の中で「学校を休む」ことがどんな意味を持っているのかは分からない。だが、街を歩いていたり、レジャー関連施設に平日に行くと、午前中から小中学生と親が一緒にいる姿を見ることはよくある。
かつては「今日は創立記念日なので遊園地に来ているんだよ~」という言い方がまかり通っていたが、ここまで毎日のように子供達を見ると「本当にこの子らは創立記念日なのか?」と思うこともある。
これを批判する気は一切ない。親が「なんとしてもこの日、我が子を遊園地に連れていくことが重要だ。オレは明日から海外転勤で2年間日本に戻れない!」みたいなことを思ったのであれば、それは学校を休ませてでも連れて行ってもいいだろう。
とにかく「のっぴきならない状況だったら休ませてもいい」というのが、子がいないながらも私なりの感覚である。
当然学習で差がつくことや、クラスメイトから「ずるい」と言われることもあるので学校は本当は行った方がいいものの、人生全体を考えれば行かなくてもいい日は年に何回かあってもいいのではないだろうか。
しかし、昭和の時代、こうした考えはかなり否定されていた。その表れが、冒頭で登場したY嬢による「皆勤賞」である。私の家は、父親が小学校1年からインドネシアに単身赴任していた。4年生で1回は帰ってきたものの、5年生の途中でアメリカにまた単身赴任してしまった。
だから、親から誘われて学校を休むということはなかったのだが、当時の「学校を休んではいけない」的世間の空気にがんじがらめにされた母親により、学校を休むことはできなかった。小学5年生の時、突然の貧血で倒れたものの、そのまま学校にい続けたし、翌日も学校には行った。母親は「絶対に学校は休んではいけない」と考えていた。そこには、「父親がいない家の母親は、ふしだらで教育に不熱心だから子供を休ませるろくでなし」といった価値観を誰からか言われたらしく、意地でも私と姉を学校に通わせた。
結果、「皆勤賞」とやらで、地元・東京都立川市で表彰された。「健康優良児」認定をされ、立川市役所かどこかで同じく学校を6年間で1回も休んだことがない児童として表彰されたのだ。この「健康優良児」は余計な差別を生むということで1996年で終了したようだが、正直今までもらった賞でもっとも意味不明だったのはこの賞である。
「休まない」ことが美徳とされた時代が終わって良かったとつくづく、思う。これぞ過労死発生の元凶だろう。(文・中川淳一郎 連載『俺の昭和史』)
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