"愚連隊の王者"安藤昇氏逝く...波乱万丈の生涯とは

2016年02月26日 ヤクザ 安藤昇 愚連隊

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ando01.jpg▲安藤昇氏より贈られた、安藤組のバッチ。桐箱には、安藤昇直筆のサインと落款が......。

 2015年(平成27年)12月16日、元ヤクザの組長で、俳優、小説家、歌手、プロデューサーなど、多くの顔を持つ安藤昇氏が89年の波乱万丈な生涯を閉じた。

 鬼籍での新名は、常(じょう)然院(ねんいん)義(ぎ)鑑(かん)道(どう)昇(しょう)居士。葬儀は家族の遺志により密葬とされたが、2月28日に近親縁者を集め『安藤昇を偲ぶ会』が催される。

■ほほの傷を見て「ヤクザ者としてしか生きられぬ」

 そんな安藤氏との出会いは、今から18年前の1998年(平成10年)7月25日のこと。友であり、元空手世界チャンピオンの士道館士魂村上塾塾長・ 村上竜司の結婚式会場で紹介された。新郎の村上竜司は、紋付姿のままで安藤氏を引き合わせてくれた。目の前に立った安藤氏は、すでに老境の域に達しているにもかかわらず、全身から発する光芒は眩(まばゆ)いばかりだった。

 とにかく、スゴいオーラを感じた。村上氏は簡単に筆者の略歴を述べた。(私の)経歴がおかしかったのだろうか、安藤氏は少し口元をゆるめ笑顔を浮かべた。そして、安藤氏はゆっくりと手を差し出した。以来、安藤氏と懇意にさせていただいている。

 さて、安藤氏の左の耳の上から口元にかけて、大きな釣り針のような形をした傷がある。反目する中華連盟に所属した、台湾人の悪漢(ヤカラ)に斬られたものである。表面23針、中縫い(=筋肉縫合)7針を合わせ、30針を縫う大ケガであった。手術は無事すんだが、端正な安藤氏の顔にはムカデが這ったような傷跡が残った。トレードマークとでもいうべき左ほほの傷。手術後、安藤氏は鏡を見て、「この顔傷(ガンきず)では自分は生涯ヤクザ者としてしか生きられぬ」と、予感したという。安藤昇氏の若き日の苦い思い出であった。

 それから3年後の1952年(昭和27年)、安藤氏は渋谷に『東興業(あずまこうぎょう)』を設立する。 俗にいう『安藤組』と呼ばれた、ヤクザ組織の誕生であった。安藤氏は自身の予言どおりヤクザになったのである。

 だが、ヤクザといっても安藤組は古き任侠界から逸脱した、独自の組織形態を持っていた。刺青や断指などの既存のヤクザの慣習を禁止し、ベネッションのグレーのスーツと黒いネクタイを制服に、丸にAの代紋を模(かた)どった組員バッジを着けることで連帯感を持たせたという。

 ダボシャツ姿に刺青をチラつかせた昔気質のヤクザに対し、新しいヤクザのスタイルを確立した安藤組。 当時のヤクザの武器の定番である日本刀(ダンビラ)や匕首(ドス)に変えて、安藤組は米軍から入手した45口径で統一し武装した。同型であれば、弾倉や弾丸(タマ)も互いに融通できる。なんとも理にかなった組織運営に、多くのヤクザたちが舌を巻いた。

 彗星のごとく渋谷の地に現れた、任侠界のニューウェーヴ安藤組。安藤氏の斬新な感性は不良少年たちを魅了した。それは、ヤクザ業界で最初といわれる代紋をあしらったバッジを300個つくったものの、たちまちなくなってしまい追加注文したという逸話が物語っている。

■弱冠26歳で愚連隊グループからヤクザ界へ

 安藤組最盛期には、500人以上の組員が在籍したという。安藤氏に憧れ集まった若者の中には、一流大学の学生や有名進学校の高校生なども珍しくなく、ほとんどが十代後半から二十代後半だった。

 のちに安藤氏自身が、『早稲田や慶応在学の学生ヤクザも多かったが、学生ヤクザは8割は卒業と同時に廃業する。残った2割のヤンチャな大学生が安藤組に就職した』と回想している。世間は、彼らを称して『インテリヤクザ』と 呼んだ。

 安藤昇氏は、弱冠26歳で愚連隊グループからヤクザ界に転身する、鮮烈なデビューであった。それからの安藤組の躍進は、今も伝説となっている。力道山襲撃計画、アル・カポネの直系ギャングとの談判等、後世に語り継がれるような大事件ばかりである。そして安藤昇は、すべての戦いに勝ち続けた。だが、怒涛のごとく躍進する安藤組を、存続の危機に陥れる事件が勃発する。

 1958年(昭和33年)に起こった、安藤組の『横井英樹襲撃事件』であった。これが安藤昇の運命の岐路となる。知人から横井英樹の債務取立てを請け負った安藤氏は、話し合いの席上での横井の傍若無人な言動に激怒。事務所に帰った安藤氏は緊急会議を発令、組員に横井襲撃を命じたのである。

『宵の銀座に銃声一発~ 横井英樹氏撃たれる~』

 翌日の新聞では、横井英樹襲撃事件を各社が一面で報じた。狙撃は成功したが横井は一命をとりとめ、さまざまな事情から安藤氏は逃亡を決意する。司法に対し徹底抗戦を宣言した安藤氏に、警視庁は『下山事件』(1949 年=昭和24年)以来の大捜査網を布き、大々的な規模でローラー作戦が実施された。さすがの安藤氏も逃げきれず、35日間の逃亡生活のすえ逮捕。殺人未遂で起訴された安藤氏に、下された判決は懲役8年。検察側の求刑は12年だった。

「勝てば監獄、負ければ地獄」

 かねてからの自身の口癖どおり、1961年(昭和36年)安藤氏は前橋刑務所に下獄した。出所後は渋谷に戻り、しばらくはヤクザ稼業を続けたが、抗争により多くの組員の命を奪ったことを自らの責任と感じ、1964年(昭和39年)安藤組を解散させている。それからが圧巻であった。

 翌1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』に主演し大ヒットを記録する。なんと、世間を震撼せしめたヤクザの組長が、松竹から映画俳優としてデビューしたのである。契約金2千万円、1本当たりの出演料が当時の最高額の500万円という破格の扱いであった。その後、東映に移籍し、数々の名作に出演する。ヤクザ界のスターから、銀幕のスターへの華麗なる転身であった。

 このように、まるで映画かドラマのような人生を送った安藤氏であるが、これらはうそ偽りない真実で世間も周知の事実である。

 終戦直後の動乱期、 旧態然とした古きヤクザの体制を破り、新しいヤクザとして群雄割拠する渋谷に燦然たる輝きを放った安藤組。幼少時から壮年に至るまで、あまりにも苛烈で壮絶な人生を過ごした、安藤昇。晩年は安穏とした余生を送っている。

 昭和が生んだ稀代の英傑・安藤昇......その死に、合掌。(文中敬称略)

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文・写真/影野臣直

※1959年、大阪市出身。大学入学のため上京。在学中に歌舞伎町で、キャッチバーを始める。以後、ボッタクリ一筋20年。男女キャッチ併せ100有余名の、歌舞伎町最大のボッタクリチェーン、「Kグループ」を築き上げる。1999年、「梅酒一杯15万円」事件で逮捕。懲役4年6ヶ月の実刑判決を受け、新潟刑務所に服役。2000年11月、『ぼったくり防止条例』施行により、グループ解散。2002年、刑期を一年残し、仮出獄。以後、裏社会の幅広い人脈を生かし、歌舞伎町ネゴシエーターとして活躍。現在は作家に転身。裏社会コーディネーターとして活躍。著書に「刑務所(ムショ)で泣くヤツ、笑うヤツ」「歌舞伎町ネゴシエーター」「歌舞伎町ぼったくり懺悔録」など。

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自伝 安藤昇

巨星、逝く。

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