憑き物(後編) 帰宅するなり娘の美和に激しく吠えだした愛犬 そして想像を絶する恐ろしい現象が起きた|川奈まり子の奇譚蒐集三七
すべて聞くと、彼は言った。
「実はな、聡子ちゃんが電話に出た途端、全身、寒イボ立ったんや! せやから何ぞあったんやないかと思ったんやけど、そういうことか……。その写真は、すぐに削除したほうがええ」
「せやけど、美和が、お祓いを受けてから消さへんとマズいんやないかって」
「そないなことはおまへん。気に病みながら持ち歩いとる方が障るから、すぐに消しぃ! 忘れてまうのがいちばんや!」
わかった、と、聡子さんは応えた。
けれども、電話を切ってすぐに、自分のスマホに美和が件の写真を送ってきたことに気づいた。彼と電話で話している間に送信してきたのだ。
「私が怖がっとることを知りながら、送りつけてくるなんて、どういうつもり?」聡子さんは美和を問い詰めた。美和は悪びれたようすもなく、「彼に説明したらええと思ったの」と答えた。
「ママが、写真を見ながら、どこがどんなふうやったか、彼に説明してあげるって、自分で言っとったやろ?」
「あないな写真を? 事情がちゃうやん! 彼はすぐに削除せぇと言うとったで。……ほら見ぃ! 今、送ってきたのは消したから、美和も削除しぃ!」
「……今じゃなきゃあかんの?」
「そうよ! すぐやりなさい!」
「まあ、まあ、聡子、あんたも、そないに声を荒げんと! なんなん、こんなお店の中で、おっきな声出しぃ恥ずかしいやろ。たいがいにしぃや」
母になだめられて聡子さんは引き下がった。
美和はスマホをバッグにしまいこみ、それきり、この旅が終わるまで、聡子さんとは目を合わそうともしなかった。
――高野山の奥之院は、一の橋、中の橋、御廟橋という三つの橋が、三重の結界になって守られとってな。橋を三つとも渡ったら、憑いとる悪いもんが落ちるんや。
結局、奥之院のとば口に立ったときには午後4時を過ぎていた。一の橋に臨むと、旅の計画を立てる前に聞いた彼の言葉が鼓膜の奥に蘇ってきた。
――そうや。橋を渡れば、美和に憑いてるかもしれない悪いものも落ちるんや。
「みんな、橋のたもとで一礼してから渡るきまりなんやって。そうしたってな」
――弘法大師さまが迎えに来てくださっとるっちゅう話や。もう大丈夫や!
見れば、美和も深々と頭を下げていた。聡子さんは、少し安堵を覚えながら、ゆっくりと橋を渡った。
杉木立に囲まれているせいか、まだ9月だというのに、境内の空気は凛と澄み切って冷涼だ。一の橋とせせらぎを背にして石畳の参道を歩きだすと、橋を渡る前よりも身も心も軽やかになっていることに気がついた。
「なんか、気分がスッキリした感じがしぃひん?」と姉が話しかけてきた。
「疲れが取れたわ」と母が言った。「さっきまでくたびれて、もう宿に行きたいと実は思ってたの。それが、どういうわけか、急に元気になった。弘法さまのお陰かねぇ……。不思議なもんや」
気のせいと言われてしまえば、それまで。
そうわかっていても、実感として一の橋を渡る前よりも心身ともに疲労が快復したように思えた。
こんなにもご利益があるなら……と、聡子さんは、口には出さなかったが、美和のスマホからアレが消えているのではないか、と、あり得ないことを期待した。