10年目の福島第一原発事故 「僕らはこの震災前までは安全だと思っていた」(福島第一原発作業員) 最終回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)
文部科学省の地震・防災研究課に事務局を置く政府の地震調査研究推進本部の地震調査委員会は2002年7月31日、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」を公表し、その中で、マグニチュード8クラスの大地震が福島県沖を含む日本海溝近辺で今後30年に発生する確率は20%程度と見積もった。津波マグニチュードは8.2前後になると見込まれた。
東電は2008年、明治三陸沖地震(1896年)または延宝房総沖地震(1677年)が福島県沖で起きたと仮定して、福島第一原発に来る可能性がある津波の水位を計算した。福島第一原発の南側(海抜10メートル)で最大15.7メートルに達するとの結果だった。
ここまでの経緯は2011年8月に政府事故調の調べで明るみに出たが、その際、東電はこの15.7メートルについて「まだ試算の段階でございましたので、設備面それから運用面で何か対策が必要ということではございません」と説明し、何の対策も実行に移さなかった経緯を正当化しようとした。
しかし、実際には、東電の社内で2008年、原子力設備管理部で津波評価を担当する土木調査グループが防波堤や防潮壁の建設を含む対策を提案し、具体的な検討を進めるべきだと主張していた。にもかかわらず、上層部の判断でその提案は採用されなかった。こうした経緯は2017年から2018年にかけて、東電の旧経営陣が刑事訴追された事件の刑事訴訟手続きの中で明らかにされ、初めて世間に知られるようになった。
マサ:想定外って言っちゃいけないって言ってもね、そんな13メーターも15メーターもある津波なんてね。
奥山:その防潮堤をつくるっていうのは、なんか、きっかけが、そういうのが来るかもしれないっていうことだったんですか?
マサ:その前の調査の段階で、津波に対する…、これぐらいの地震が起こる可能性があるので、このぐらいの津波が起きる可能性があるっていう、そういう報告があって、それに対して、これだけの防波堤をつくったほうがいいんじゃないかっていう計画があって。でも、それはなぜか、「いや、つくらなくてもいいよ」っていうことになったから、つくらなかったんですけど。そこの経緯はわかんないですけど。わかってるのは、そこの計画があったところ。
久田:地震が来るらしいというのは、文科省のホームページで出ていたんですよ。「ちゃんと言ってるんですか?」って文科省に聞いたんですけど、「ちゃんと各自治体に言いました」って。
マサ:だから、最終的には東電の上のほうの判断で、「いや、つくらなくてもいいよ」っていうことになったから、つくらなかったんでしょ。今回みたいに、福島第一って東側に全部、大物搬入口っていう、水が入ってきやすい大きいのが、全部東側に向いてるんですよね。これも敗因だったみたい。あれが逆向いてたら全然違うし。実際、柏崎は全部山側向いてるらしいんですよね、その搬入口が。海側に向いてないらしいですよ。海からはすごい距離があるし。
構造上、柏崎の場合は熱交建屋っていうのを外に持っていって、一次ループ、二次ループで水を分けて、最後にリアクタータービンがあるんで、海から離れてるんです。距離があるんです。ただ、1Fは近いですよ。1Fは一次ループ、二次ループとかがないんで、もろ海から取った海水系をそのまま中に流してるんで。だから距離が近いんです。だから当然、海の津波とかの影響を受けやすい。
久田:グーグルマップで見ても、海のホントすぐそばですもね、1.2.3.4と。
マサ:そうですね。
奥山:2号機の大物搬入口もあいてたっていう話ですけど、それは津波で開けられた?
マサ:1号機は津波でめくれるようにあいちゃったんですけど、2号機はあけました。アクセスがないんで。
奥山:12日ぐらいに?
マサ:ルートがないんで、あけたはずです。で、4号はちょうど定検中だったんで、そのときに地震が起きて津波が来るときに、大物搬入口がちょっとあいてたんですよ。定検中だから、資材の移動とかいっぱいやってるんで、その搬入口をあけた状態だったんですよ。だからもろに水が入ってきちゃって。シャッターすらなかったんで。
彼の指摘する通り、福島第一原発1~4号機のタービン建屋にある大物搬入口はいずれも海に向かって開いている。一方、柏崎刈羽原発では、たとえば7号機の平面図、断面図を見ると、タービン建屋の大物搬入口は海に向かってではなく、それとは直角の方向に面する側に設けられていることがわかる。最寄りの海からの距離は200メートル弱で、福島第一原発の大物搬入口よりも数十メートルほど海から離れている。
東京電力によれば、2011年3月11日に震災が発生したとき、福島第一原発では、1号機タービン建屋の大物搬入口の防護扉は点検のためにもともと開放されていた。4号機については東電は「防護扉が開放されていたという事実はない」と主張している。共同通信社原発事故取材班高橋秀樹記者の編著書『全電源喪失の記憶』は、4号機大物搬入口のシャッターが「紙のようにめくれて、真っ黒な塊が一瞬にして建屋内に飛び込んできた」との東電社員の目撃談を紹介し、これを裏付けている。他方、経営コンサルタントとして名高い大前研一氏が立ち上げた「福島第一」事故検証プロジェクトの最終報告書は、「建屋に大量の水が入り込んだ原因の1つとして、資材運搬や作業のために、搬入口が開放されていたものがあったことを指摘しておかなくてはなりません。
開いていた搬入口から、津波が一気に入り込んでしまったのです」と指摘した上で、「4号機は(中略)扉を開けて作業員が避難したところに、津波が襲ってきて、水が流れ込みました」と記述している。東電が2020年12月22日に公表した2011年3月24日の空撮画像には、4号機タービン建屋の海側の扉があいている様子が映っているが、これは震災発生後に行方不明者捜索のためにあけられた可能性がある。
■5~6号機の電源を1~4号機につなぐ計画
検討されたものの見送られた安全強化策はほかにもあった。
2006年、1~6号機が互いに電源を共有できるようにする計画が東電社内で練られた。構内の南側の1~4号機の常用高圧電源盤(M/C)は互いに接続できるように電気ケーブルでつながっており、電源を融通できるようになっていた。北側にある5、6号機の間でも同様に電源を融通できた。しかし、1~4号機と、5~6号機の間はつながっていなかった。これを改良するため、鉄塔に架設したり、トンネルに通したりしたケーブルで1~6号機をつなぎ、安全性を高める案が検討された。
元東電幹部は「改良工事には、関連の土木工事も含めて数十億円規模の工事費が見積もられ、実施される予定になっていた」と話す。しかし、朝日新聞記者に対する東電の説明では、構内にケーブル敷設の際に障害となる構造物や埋設物が多く、ケーブルが長くなることで電圧低下も起きることから、検討の域を出ないまま、工事の具体化は断念したという。
奥山:3~4年前に計画として――1~4と5~6で分かれてますよね、北と南で――、そのあいだをケーブルでタイラインでつなぐっていう計画が……。
マサ:あったらしいですね。それをぼくもあとから聞いたんですけど。
奥山:当時は聞いてはおられなかったんですか?
マサ:ありましたよ。話があったっていうのは知ってますけど。
奥山:その実現の可能性というか、結局今回みんな受電設備はやられてるんで、それがあったとしても結局同じじゃないかって東電は説明してるんですけど、それはやっぱりそんな感じですか?
マサ:どうですかね。そのラインの持ち方じゃないですか? やり方じゃないですか?
奥山:地下を通すのか、外の上を通すのか。
マサ:そういうこともあるかもしれないし。やりようじゃないですかね。二重化プラス、そういう5~6号と1~4号のタイラインの話だから、そういうことをやっといて、今となっては結果論で、「それやっといてもしょうがなかったんだよ」って言うかもしれないけど、やって意味がなかったかっていうと、それはわからないですよね。そのときの形じゃないですか? そういう言い方をすると、DGがなんで地下にあるのっていう話になっちゃうし。そういう話になっちゃうんで。
奥山:今回、2、4の共用プール建屋1階にあったDG、ありますよね。あのDGそのものは無事だったということでいいんですか。
マサ:機械じたいは無事でした。
奥山:いまそれは動いてはいない?
マサ:1台だけ、きのうかな、おとといかな、電源を復旧して50%負荷まで負荷とれるようになったんで。
奥山:去年3月以来…
マサ:はじめてです。きのう、ぼくは当番で。当番は夕方遅くまで残って、緊対室のミーティングに出ないといけないんです、東電の全体の。その中で、2BDG、共用プールにあるDGがきょう50%負荷を迎えました。みんなで拍手した。
奥山:今回、メタクラ(高圧電源盤)が全部地下にあってダメになった。
マサ:そうです。
共用プール建屋の1階には2号機、4号機のための2台の非常用ディーゼル発電機(空冷式)があり、地下には2号機、4号機のための非常用高圧電源盤(メタクラ)と非常用パワーセンターがあった。しかし、1号機、2号機のタービン建屋に侵入した津波の水がケーブル貫通部を通って共用プール建屋の地下に浸水し、電源盤が機能を停止。これに伴って、1階にあった2台の非常用ディーゼル発電機も停止した。
奥山:あれはやっぱり地下に置くもんなんですか。
マサ:わかんないですね。ぼくのあとから聞いたところだと、プラントによっては、DGが山の上にあるとこもあるし、ほかの発電所で。で、電源もそういう設備のところもあるというんで、もともと、基本がGEじゃないですか。GEのアメリカの設計を持ち込んで、やってるんで、GEのアメリカの設計自体に津波とか水没とかの概念がない。
奥山:共用プール建屋のDGは……
マサ:設計のコンセプトはぼくらには分からないんだけど、結果を見てみれば、おかしい。
■原発で働くことと被災者としての喪失に気持ちの上で乖離
インタビューの終盤、彼は被災者としての自身の心境を語った。
奥山:マスコミの報道について何か言いたいこととか、意見とか、こうしたらいいとかってありますか?
マサ:正直な話は、ぼくも原発復旧やってますけど、被災者なんで、そっちの気持ちのほうが大きいですよね。自分の個人の家とかそういうもの、これから先の生き方とか、そういうことをどうすんの?みたいな。
久田:浪江でしたっけ?
マサ:そうです、浪江に家があって、こんな状況になっちゃって。「え、どうなるの? どうすんの?」って、そこしかないですね。原発とかそういうものに対しては、実際はぼく個人の意見ですけど、家を取られて、今まで住んでたものをなくされた原発に対して、そこで働いてるっていうこと自体がもう、気持ちとあれが乖離じゃないですか、おかしいですもん。だから憎んでもいいはずだし。そこで働いてるということ自体がバランス悪いですよ。
だからぼくは会社の上司のほうには、これがある程度、いつか分からないですけど終わったら、ほかの原子力発電所、柏崎とか東海とか、うちもいっぱい事業所あるんですけど、「もう行きたくないです。原子力はいいです」って俺は言ってんですけど。まあ、わかんないですけど。気持ちとしては、そこにこのあと貢献するっていう意味がよくわからない。
久田:被災者でありながら復旧作業するという矛盾というか、葛藤ですよね。
マサ:そうですよ。だから東京電力さんのことをお客さんとは呼びたくないですし、実際はね。そこは百歩譲って、自分の生活ができなくなっちゃうんで、会社は辞めないとして。A社って東京電力さんが一番のお客さんですから、そこはまぁ譲るとしても、もう1回原発で新しいところでっていう気にはちょっと、どうしてもなれないですね。
奥山:火力とかそっちに?
マサ:火力でもいいし。うちも発変電とか地中線とか屋内線とかいっぱいありますんで。潰しが利かないかもしれないですけど、そういうところでなんでもいいんで、とにかく離れたい。同じことをやりたくないし。
久田:復旧って今、進んでないですよね。
マサ:進んでないですよ。これから帰れる楢葉とかだって、やっとどこが悪いのか調査に入っただけですから。どこまで電気が来てて、どこまで水があって、どこの道路を直さなきゃいけないかっていう、その調査に入っただけですから。だから「帰れるよ」って言ってから、ホントに帰るまで2年3年かかります。そのインフラ整備されてから。
まず役場が帰って、業者が入って、インフラ整備して、2年3年かかって、やっと、「じゃあ帰ってきてもいいですけど」ってなったとき、そこに住んでたみんなが帰るかどうかの判断を、そこで出す。べつに帰還宣言とかしても、川内村はしましたけど、川内村は帰還宣言したけども、実際帰れるのはまだ2年とかかかりますよ。これから除染しなきゃいけないんで。それも結果はどうなるかわかんないです。
奥山:今はいわきにふだんいらっしゃるんですか?
マサ:そうです。
奥山:1Fに通勤するような感じで。
マサ:そうですね。
奥山:Jヴィレッジ経由で?
マサ:そうです。だから今、7時前にはここを出て、やっと8時半ぐらいに着くぐらいの感じですかね。遠いんすよ、乗り換えたり、あと着替えたりしなきゃいけないんで。夏場はサマータイムとかやってたんで、6時にはスタートして、午後2時には仕事切り上げて。それでも熱中症でバタバタいってましたからね。夏は嫌ですよ。またもう1回あの夏やるのかと思うとホントつらいです。逆に思いますもん、そこまでにあと20ミリぐらい浴びちゃって、クビにならないかなって、逆に。あんなつらい思いするなら。
奥山:今のお仕事の焦点になってるのは、特に何号機とかあるんですか?
マサ:そういうんじゃないですね。今は建屋のどうのこうのよりも、汚水とか排水処理システムに関わる電源をいま構築していって、なおかつ今、新しい開閉所っていう電源を取り込むところの施設をつくってるんで、そこが今一番大きい仕事ですかね。新しい設備を、電源の設備をつくってますから、そこが終わっちゃうとちょっと。
で、今期3月で期が終われば、東京電力さんにお金がないっていうことで、ある程度構築した時点で、次の、そこから先をどうしようかなっていうのは。だから4月から逆にあいちゃうかもしれないです。仕事がないかもしれないです。
奥山:すごいお話ですよね。これは、事故調査委員会とかいろいろありますよね。そういうところでは特に聴かれたりされたんですか?
マサ:聴いてくれれば話しますけど、べつに聴かれてないんで(笑)。
奥山:ちゃんと記録に残したほうがいいですよね。
インタビューを終えて奥山は「屋内や敷地外で爆発音を聞いた人の話はこれまでにも報じられているが、彼の話はそれらよりはるかに生々しい。敷地内の屋外、あるいは、爆発した建屋のすぐそばで爆発に遭遇した人のここまで具体的な体験談は他に見当たらない。とても貴重な証言であり、今は無理でも将来いつかは公表されるべきだ」と思った。その後、共同通信の記者たちによる新聞記事連載『全電源喪失の記憶』で福島第一原発で働いていた人たちの貴重な体験談が報道されたが、それでもなお、彼の話は重要な史料になりうると奥山は考えた。そこで、史料としての価値を損なわないように、一問一答の文言について、録音から起こしたままとし、まるがっこで言葉を補ったほかは一切手を加えないようにして、この原稿を作成した。
〈インタビュー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員 文責・写真@久田将義(TABLO編集長)〉
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