中国ではもう何年もの間、文化大革命のころに紅衛兵だった人々が、当時自分たちが罵ったり殴ったりした教師に謝罪したというニュースが、ポツリポツリとメディアに現れている。
紅衛兵が活躍したのは文革初期の1966年からの1~2年ほど。当時、中学生や高校生だった人々のほとんどが還暦を過ぎ、彼らが"打倒"した教師たちに至ってはかなりの部分が鬼籍に入り、生きている人たちも80代、90代となっている。元紅衛兵たちには、もうあまり猶予がないのだ。
つい最近も、ある女性が、高校時代の教師たちに謝罪したというニュースが中国のメディアを賑わした。ただし、今回謝罪したのは、ある意味象徴的で、特別な人物だった。
「宋彬彬」というその女性は、あるいは70年代以前に生まれた中国人なら知らない人はいないというほどの有名人だ。1966年の8月18日、毛沢東が天安門広場で初めて全国の紅衛兵と会見した際、一人の眼鏡をかけた女子学生が、紅衛兵の腕章を毛沢東の腕に巻き付けている有名な写真がある。毛沢東と紅衛兵の強い絆を象徴するようなその写真の女子学生。それが、宋彬彬なのだ。
宋の父親は共産党の元老の1人。当時彼女は現在の北京師範大学付属女子中学の学生で、革命運動にかかわり、学内で紅衛兵組織を結成。彼女たちは毛沢東と接見するより前の8月5日には、自校の教師たちに暴行を加え、ついには副校長を撲殺している。この後、紅衛兵の暴力によって命を落とす人は後を絶たなかったが、この副校長が北京で最初の死者となった。
宋は1980年代に米国に留学し、ボストン大学やMITで学位を取得。そのまま米国籍をとり、現在は米国で暮らしている。そんな彼女が戻ってきて謝罪したのだ。涙ながらに。
ただし彼女はただ謝罪したわけではない。「私は校長先生を殺してない」とはっきりと述べた。毛沢東と会った際に「要武」という名前を与えられて改名したと言われてきたが、「私自身は改名したことは一度もない」とも言った。
彼女のことを「宋彬彬」としてではなく「宋要武」として記憶していた人は多い。その人々は、この報道を見て驚いた。当時、彼女の文革への決意を書いた記事は、「宋要武」という直筆の署名入りで発表され、多くのメディアが転載したのだ。しかし、彼女によればそれは「記者が勝手にやったこと」だという。
幹部の娘ではあったが、リーダーというわけでもなかった少女が、友人に背を押されて壇上に上がって毛沢東と接見したことから、偶像に仕立て上げられた。おそらく彼女は異国で暮らすようになっても、その過去に苛まれていたのだろう。
確かに、彼女自身が紅衛兵の活動を統括していたわけではなく、実際にリーダーシップを取っていたような人物はこうした表舞台には出なかったようだ。彼女が、文革推進の宣伝のために利用されたことはまず間違いないだろう。
彼女より前には、やはり共産党の元老だった陳毅の息子が、当時の罪を謝罪して称賛された。一方で、謝罪といいつつ衝撃的な自己弁護をした宋を非難する声は少なくはない。ただ、自分の知らない「宋要武」像をそのままにしておくことは、耐え難いことだったのに違いない。
有名な人物の子女による相次ぐ謝罪は、さまざまな議論を呼んでいる。少なくとも、激しい競争社会のなかで「文革のころはよかった」という空気が一部で漂っていた中国で、「文革のころ」を生々しく思い起こす契機となっているのではないだろうか。
Written by 劉雲
Photo by Virgin Media Group
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