『暴力とは何か』 日馬富士暴行事件に見える"想像力の欠如"

2017年11月22日 日馬富士 暴行 相撲 貴ノ岩

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モノを使っての暴行は民事から刑事へと発展する危険性がある

「暴力とは立場が上の人間が下の人間に対して行う強制力である」

と僕は自分で定義づけています。

これは肉体を使おうが言葉を使おうが同様です。

逆に「下の立場の人間が上の立場の人間に行う強制力は反抗」と言えるでしょう。暴力はそう考えると卑劣で卑怯です。社会的に上の立場の人間の強制力はハラスメントにほかならないからです。

日馬富士は暴行を認めました。これは前述の定義で言うと暴力にあたります。すなわち卑劣な手段です。貴ノ岩が振るったとしたら、これは反抗になります。僕はひねくれているので後者に対しては「殴ったのはいけないけど勇気あるよな」ぐらいに思ってしまいます。下の人が上の人に刃向かってもいいじゃないですか。生意気で結構。前者に比べればまだマシです。

日馬富士がビール瓶、あるいはそれに似たモノを使用したのではないかという事が現在(11月21日)取りざたされています。刑事事件上、これは結構重要です。

僕も若気の至りで喧嘩をしてしまった事があります。所轄の警察で取り調べを受けました。三畳ぐらいの狭い部屋です。何だかんだで、三時間ぐらいかかったのですが、刑事は終始和やかでした。僕の事をなぜか知っていたのと、相手が最初に飛び掛かってきたのが原因という事を周囲の目撃者が話していたからです。

が、取り調べ中、部屋を出たり入ったりしている刑事が、怪訝な表情になった瞬間がありました。「あなた、手に何か持っている?」と。僕は手の平を開いて何も持っていない事を示しました。相手の顔に切り傷りのようなものが見つかったそうです。結局、何も持っていなかった事が確認され、そのまま解放されました。モノを持っての暴行は民事から刑事へと発展する危険性があるのだと身をもって体験しました。

そういう意味では日馬富士が素手で叩いたのか、モノを使ったのかは情状でも大きな差が出てきます。「モノのハズミでついやったのか。相手を傷つけてやろうという意図でやったのか」は大きな違いです。

日馬富士はいかなる理由があろうと貴ノ岩に暴力を振るってはいけなかった

しかし、とにかく暴力をふるった事自体がアウトだという基本原則を忘れてはならないでしょう。相撲界にとって横綱は日下開山、天下無双です。さらに神事から発生した、独特の世界でもあります。体育会以上の上下関係が構築されています。貴ノ岩はどうする事も出来ない状況でした。そこで暴力をふるうのはリンチ等しいです。

皆さんが会社員で、もし酒の席でそのような暴行を上司にされたらどうしますか? 殴られっぱなしにされますか? 手を出して反抗してしまいますか? 手を出しても構わないとはここでは、言いません。

なぜなら、成人してからの暴力は、振るった側も振るわれた側もデメリットしか残らないからです。ふるった側は事件になってしまった場合、社会的地位がなくなる可能性があります。ふるわれた側は肉体的にダメージを受けると同時に精神的にもトラウマになってしまう可能性があります。もしかしたら、打ちどころが悪くて死に至ってしまうかも知れません。

というような想像力を働かせれば、暴力をふるう事がいかに愚かであるか気づくはずなのです。

日馬富士はどうでしょう。日下開山の横綱が平幕力士に対して、どういう理由であれ、殴った事でどうなるのか想像がつかなかったのでしょうか。どうにかなると思ったのでしょうか。同席していた人は、皆自分の味方をしてくれると思ったのでしょうか。横綱である自分のする事は正しいと思っていたのでしょうか。あるいは暴力が日常化していた為そういう想像をする事自体しなかったのでしょうか。だとしたら相撲界の悪し慣習はなくなっていない事になりますが......。

日馬富士の心情は、現在のところ分かりせん。事情聴取の結果を待たなければならないからです。が、相撲界のしきたりを排除した場合、日馬富士の暴行は「暴力」なのです。暴力は、前述したように卑劣な手段と言わざるを得ないです。

因みに日馬富士の相撲は個人的に僕は好きで、特に、仕切る時の平蜘蛛の構え。あれだけでも日馬富士の相撲は見る価値があると思っているのですが。

取材・文◎久田将義

 

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