大相撲の女人禁制問題ですが、本サイトでは神事からとか歴史から、という観点で掲載しました。
神事を知らない日本国民 相撲が女人禁制なのは「穢れている」からではありません!
今回は違う視点で見てみます。最近、この話題になると必ずと言っていいほどテレビなどに露出している、元力士・大至さんの言葉を例に出して考えてみましょう。大至さんはブログで公開しているように、
・土俵では命をかけて身体と身体のぶつかり合いをする
・女性は癒しの存在でいて欲しい。その土俵にはいてほしくない(大意)
という事を記しています。
このブログを書く以前にも「土俵で命をかけて戦っているから女性には上がってほしくない」という発言をしています。その根拠は「神事」などではありません。「相撲界に入ったころから教えられてきた」という漠然としたものでした。
ですから、ここでは「大至さん」というより「大至さん的発想」という事で論じてみます。
私事で恐縮ですが、僕も学生時代、東京都の中学・高校と、花園に出場するくらいのレベルのラグビー部に在籍していました。その頃は、僕も大至さんのような事を思っていました。中学・高校生などはガキですが、ガキはガキなりに身体を張っていました。特に、僕は身体が小さかったのでタックルとなると、大げさでなく「この瞬間、身体がバラバラになってもいい」ぐらいの覚悟で、足首を狙ってタックルに行っていました。
試合開始直後、タックルに行って(天理高校でした)顎の骨を骨折。そのまま1時間、試合に出続けました。ほかには鼻、右手の骨折。脳震盪も少し癖になってしまいました。その時、ヘトヘトになった僕らは思っていました。「女子と付き合いたいけどグラウンドとかに連れてくんなよ」と。
ラグビーも相撲同様、「身体張った男と男のぶつかり合い」(世界レベルだと190cm120kgの選手が100m10秒台で突進してきます。ちょっとした交通事故です)です。それでも体格関係なしにタックルに行かなければなりません。大体、試合をやるごとに怪我で退場者が出るスポーツなど他にありません。
当時は「こんな危険なスポーツは女性には出来ない」と思い込んでいました。以前の、体育会系独特の考えでした。
大至さん的発想も同じような事と思われます。「神事の根拠は分からないけど、俺たちが身体を張って稽古・試合している土俵に、とにかく女子は入って来るな」と。ブログでは、それは表現が過ぎるからヤバいと思ったのかどうか、「女性は癒しの存在であるべき」と柔らかくしてありますが、根底には「男の世界に女は入ってくるな」と推測します。僕がそうでしたから。
つまり、彼的「女人禁制論」の中身は精神論・感情論です。意気込みは分かります。僕も「大至さん的な人」だったのです。「こんな激しいスポーツ・競技・格闘技の世界に女性はいらない」と。その歴史的根拠はありません。個人が思っているだけです。
現在はどうでしょう。女子ラグビーが始まり、国際大会にも出場しています。相撲はもっと古く、女相撲は江戸時代には記されており、女横綱若緑関の話は僕が「実話ナックルズ」編集長時代に掲載しました。
外に視野を向けてみましょう。「男が身体をかけて、命をかけて戦っている」世界はたくさんあります。ボクシング、プロレス、柔道、空手などなど。それらは全部、女性が進出しています。
では、そのリングや試合会場の上は神聖ではないのでしょうか。いえ、やってる選手たちからすれば「神聖」な場所です。ラグビーも試合場に入る際には、一礼し退場する時も一礼しますし。
前記したように、神事論はここでは置いておきます。恐らく大至さん的発想の「女人禁制」論者が多いのではと思います。だが、大至さん的「女人禁制論」は説得力はないのです。「感情としては分かりますよ」としか言いようがありません。
そこで「それでも女性は土俵に上がってはダメだ」と頑なに感情論を張るのか、「もうそれでは説得力がない」と論理的な態度を取るのか、の二択になってきます。感情も論理も両方、人間には大切です。ですから、大至さん的発想は排除したくはありません。
しかし、恐らく「『身体をかけてやってきた土俵だから』が理由なら女性を上げてやれ」と思う人の方が多いでしょう。僕もそうです。
ですから、今回の女人禁制論者は情で訴えても論で負けるでしょう(議論は情が勝つ事もありますが)。ということなら、やはり「神事として」どうなのか、や「歴史上における相撲の有り様」で論じるのが説得力があります。体育会系脳はこの件では、捨てて考えるべきでしょう。(文◎久田将義)
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