清が事件を起こす前まで大久保家の墓があった寺(筆者撮影)
昭和46年3月31日から5月9日の40日間で8人の若い女性を言葉巧みにドライブに誘い暴行した後に殺害した大久保清。昭和の事件史を振り返る時に、外すことはできない人物である。
初めて大久保清の取材をしたのは、今から20年近く前のことだった。私はとある写真週刊誌編集部につい数週間前に入ったばかりで、先輩記者の後を金魚の糞のようについて回り、大久保のことを調べて歩いた。
その取材がきっかけで、大久保清という犯罪者に興味を持った。
大久保清の犯罪をざっと振り返ってみると、その萌芽は小学校の頃に遡る。小学校5年生の時に、近所の幼児を畑の中で犯さそうとしたが、果たせず泣きわめいた幼児の性器に石を積めたことが記録に残る最初の犯罪だ。この時のことは、近所でも大問題となったが、大久保清の母キヌは、ひたすら清は悪くないとかばい続けた。
「清はその事件だけじゃなくて、近くの河原で、ちょっかい出そうと女の子を追いかけ回したり、とにかく女の子に悪戯ばかりしている子だったよ」
大久保清が暮らしていたJR群馬八幡駅近く、彼と一家のことを知る女性が言った。事件が起きたのは昭和20年のことで、それ以降、近所では「清には気をつけろ」が合い言葉になっていったが、気をつけなければいけないのは清だけではなかったと、女性が言う。
「清のお父さんっていうのも、いやらしい男だったんだよ。近所の女の人が清のお母さんと茶飲み話をしていると、コタツに入っきて、中で手を握ってきたりしてね。昔は、息子の嫁が風呂に入った父親の背中を流すのが習慣だったから、その時に、息子の嫁さんたちに手を出したとか、子どもたちの前で、気にしないでスモウを取っちゃったりしたみたいだよ」
スモウとはセックスを意味するこの地方の言葉である。父親の性に対する滅茶苦茶さが女性の言葉から十分に伝わってきた。清は幼い頃から、そんな父親の姿を目に焼き付け育った。六人兄弟の、ひとまわり上の兄・幸吉は警察への供述調書の中で、安中市内にある寺に墓参りに行った帰り、父親は幸吉の嫁を桑畑の中に連れ込み、犯したと証言している。
一方で母親は清を叱ることはなく、幼児を犯そうとした時もかばったほどであるから、清少年は我慢をすることを知らず、自由奔放に育てられた。
1日に200キロ以上走行し、若い女を漁った
大久保清が生まれ育った火宅の家は、群馬八幡駅から延びる通り沿いにあった。今ではJAの建物が建つその場所は、かなりの広さである。
昭和46年3月2日、強姦事件の服役を終えて、府中刑務所を出所した大久保は、この場所へと戻って来た。3月12日に当時の最新車マツダロータリークーペを仕事の為に必要だと、両親に買ってもらい、19日に失効していた免許が再交付されると、水を得た魚のように女に声を掛け、ガールハントを開始するのである。
声を掛けた女の数は日に20人以上、1日にタクシー並の200キロ近く走行した。大久保が声を掛けたのは10代から20代前半の女。若い女に限定していたと本人は供述している。肉体関係を持った女の数は、正確な数は不明だが20人近くに及び、そのうち8人の女が殺されたのだった。
女が殺害された理由は、大久保が前科者であると知ってしまった者や、父親が警察や検事だなどと口走った女たちだった。従順に大久保に従った女は、特に危害を加えることなく、送り返している。
大久保が犯行に及んだ、1970年代には車の販売台数が60年代の10倍となるなど、急激に車が社会に浸透し始めた。カーセックスをすることが、雑誌で報じられるなど、若者の生活とは切り離せないものになりつつあった。その20年前の戦後直後には食料を餌にして女性を誘い、栃木などの山林に連れ込み殺害した小平義雄が逮捕されているが、食料から車へ、日本社会の変遷を象徴する事件である。(取材・文◎八木澤高明 『昭和の事件史』)
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