「履けないズボン」が証拠になり死刑囚にさせられた袴田巌さん。
事件発生から一年二ヶ月後、突如として味噌工場の醸造タンクから発見された血染めの衣類が、袴田巌さんを犯人とする最大の証拠だった。それはポロシャツ、アンダーシャツ、ズボン、ステテコ、ブリーフの「五点の衣類」で、裁判所は袴田さんの犯行時の着衣だと認定していた。だが、この「五点の衣類」は、奇妙なことにズボンよりステテコのほうが多く血液が付着するなど不自然な点があり、さらにズボンのサイズが小さく、袴田さんの体格とはまったく一致しなかった。これらは静岡県警の悪質なでっち上げ、捏造であることは当初から明らかだった。
しかも、第二次再審請求審では、弁護側と検察側が血痕のDNA鑑定したところ、この最大の証拠とされた衣類の血液が、被害者と袴田さんのいずれの血液とも一致しないとの結果が出た。袴田さんは冤罪で、真犯人ではあり得ない決定的証拠だった。
「証拠が後日捏造されたと考えるのが最も合理的で、現実的にはほかに考えようがない。このような捏造をする必要と能力があるのはおそらく捜査機関(警察)をおいてほかにない」
今回、静岡地裁の村山浩昭裁判長は強い憤りを込めて論難した。再審の開始ばかりか、死刑の執行と拘置の停止まで決定したのは異例中の異例である。
私は三月十八日、超党派の国会議員たちで作る「袴田死刑囚救援議員連盟(塩谷立会長)」の総会に参加した。第二次再審請求審の過程で明らかになった数々の証拠は、袴田さんに有利なものばかりだったが、一抹の不安もあった。昨年十月、名張毒ぶとう酒事件の第七次再審請求で、再審の扉を固く閉ざした最高裁の体たらくを見せつけられたからだ。それでも、自民党から共産党までの国会議員たちが袴田さんの雪冤を果たすことで一致することは、再審開始へと強力に後押しするにちがいない、と思い直した。本当に予想を超える結果となった。
私が袴田事件を取材したのは2010年4月、この議連が結成したことがきっかけだった。月刊誌『実話ナックルズ』の当時の編集長だった久田将義さんから、取材・執筆の依頼を受けた。仕事として携わるのは初めてだったが、私は袴田事件の支援集会に何度か参加したことがあった。支援団体の「袴田巌さんの再審を求める会」の代表だった平野雄三さんが会報『さいしん』(05年3月創刊)を送って下さっていたからだ。
それ以前からも、袴田事件や死刑・冤罪・刑務所問題に関わる新聞や雑誌の記事を、よくここまでというほど収集し、まとめたものも送られてきた。心血注いで袴田さんの支援に取り組んでいた平野さんだったが、残念なことに06年12月に亡くなっている。私は平野さんから届いた貴重な資料を読んで、袴田さんの無実を確信していた。特に強い衝撃を受けたのは、03年3月10日の面会記録だった。この日は袴田さんの誕生日で、姉の秀子さんが保坂展人氏(現・世田谷区長)を伴い、東京拘置所を訪れていた。
「きょうは誕生日だね」「お元気ですか?」と尋ねる秀子さんらに対して、袴田さんは意味不明の言葉を続けていた。
「無罪で勝利した。袴田巌の名において」
「神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。日本国家に対して5億円の損害賠償を取って......」
袴田さんは不幸にも拘禁性の精神障害を患っていたのだ。実は80年11月に死刑が確定したころから、袴田さんは秀子さんや支援者との面会でもコミュ二ケーションが困難な状態になっていたという。日々、死刑執行の恐怖に怯えながら、確定死刑囚として30年以上の歳月を過ごすというのは想像を絶するものだろう。久田さんから執筆依頼を受けた時、真っ先に伝えたいと考えたのは、こうした袴田さんの置かれている過酷な状態だった。
今回の決定で村山裁判長が「これ以上、袴田さんの拘置を続けるのは耐え難いほどの正義に反する状況にある。一刻も早く身柄を解放すべきだ」と言及したことは当然とはいえ、拘置の停止は本当に英断だった。
裁判所が捜査機関による証拠の捏造を指摘することは、きわめて異例だ。とはいえ、警察が組織的に証拠の捏造に手を染めることがあるのは、もはや冤罪事件関係者の間では常識となっている。例えば、樫田忠美という元検察官が書いた『検事物語』という古い本が、司法関係者によく知られている。尊属殺人事件を担当した樫田検事に対し、警察の捜査主任が、被害者を解剖した時に流れた血を被告人が着けていた衣類に塗って滲み込ませておいた、と耳打ちされるシーンが出てくるほどだ。これは紛れもなく、検察官が書いた本である。裁判所はこの機会に冤罪が疑われるような事件において、訴追側が提出する証拠をまず疑ってかかるべきであろう。
今回の再審開始決定に対し、検察側は即時抗告する方針というが、長年にわたって証拠を隠蔽してきたにも関わらず、さらにウソの上塗りと恥の上塗りをくり返すというのか。余談だが、袴田事件の再審開始決定を報じるNHKのニュースを見ていたら、元裁判官の門野博・法政大法科大学院教授がコメントしていてのけぞってしまった。名張毒ぶどう酒事件で、名古屋高裁刑事1部が出した再審開始決定を、同刑事2部で「自白」を重視して取り消した裁判官である。死刑になるような事件であっても、ウソの自白に追い込まれるケースは過去にも多くあったにも関わらずに、だ。NHKは皮肉を効かせたつもりだろうか。ブラックジョークにもならない人選だった。
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Written by 亀井洋志
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