「上野に立って何年になるかしら」 不忍池の畔に静かに佇む73歳の男娼・ミミさん

2017年11月25日 

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あの夜の記憶を、私は今も鮮明に覚えている。あの夜、私は酒に溺れ、危険水域に引き込まれる寸前だった。そう、私はただの酔っぱらいに落下しようとしていた。その時だった。 「オカマがさぁ、飛び降り自殺したんだってさぁ...」 どこからか呟かれた言葉に、酒場の片隅に座っていた私の心が小刻みに揺れた。私の朦朧とした酔眼は、その言葉の深意を探ろうと酒場を彷徨ったが、言葉はすでに跡形も無く消え去っていた。私は、幻聴を聞いたのだろうか...。 いや、その呟かれた言葉は、今、まさに水没寸前の私を踏み止まらせ、私の意識の深い風景の中にあった。上野界隈に佇む、男娼たちの姿を甦らせた。

 

上野の街は男娼の街でもあった

 

1980年代終り、街は、狂疾のバブルのまっただ中、浮ついた空騒ぎが雑踏を支配し、熱病に浮かされた者たちが、毒薬を一服盛られたように、涎を垂らしながら、だらしのない笑みを見せて街を徘徊していた。そんな狂い咲きの上野の街で、ストリートに、路地に、池の端に、彼女たちは佇んでいた。 私の馴染みの酒場があった路地裏にも、彼女たちの姿はあった。

酔顔の男達がフラフラと路地に吸い込まれて来ると、スッと歩み寄っては、「お兄ちゃん、チョイと遊んでいかない」と囁いた。彼女たちだけが持つものだろうか、理由のない奇妙な圧力があった。その方面に詳しい友人が言うには、彼女たちは、すぐ近くにある同伴喫茶に男を連れ込んで、カップルを覗いたり、時には抜いたりするという。

狂乱のバブルが崩壊した。崩壊は坂道を転がるように加速度を増し、熱病に浮かされた者たちの姿が、上野の街から消えた。そしてまた、彼女たちも、ストリートでは、ほとんど出会うことはなくなってしまった。どこへ行ったのだろうか...。 今、不忍の池畔、下町風俗資料館(以下資料館)辺りに佇む、彼女たちの僅かな影を見る。

上野と男娼、そこに歴史がある。江戸時代、上野には寺小姓、隣接する湯島界隈には、男色を売る少年たちの陰間茶屋が多かった。客はといえば、上野の山の寺坊主だった。また敗戦後の上野には、地下道を中心に二千人に余る浮浪者がいた。その中には、生きるために春を売る者たちもいた。上野の街娼は七百人、その他の淫売を含めれば千三百人の商売女、さらに女装、男装とりまぜて約百人男娼がいた。そして、

「1948年、警視総監一行が、浮浪者の狩り込みを見学の上、夜の上野公園を巡視中、同行の報道カメラマンが、ノガミ(上野)名物"夜の男"の群れを撮ろうとランプをつけたことから、入り乱れてのケンカとなり、警視総監は殴られた上、帽子をひったくられる騒ぎ...以下略」〈朝日新聞〉

まさに、上野の森は、男娼の森でもあったのだ。

 

なぜ彼女たちは死んでしまったのか

 

2004年初夏、生暖かい風が木々を揺すり、不忍の池の蓮の上を吹き抜け、上野の繁華街へと流れていった。資料館脇の植え込みの石の縁に一人、年配の彼女がいた。私が近付いていくと、気付いたのか微笑んでみせた。それから、徐に黒いストッキングをたくしあげた。

私は、一瞬たじろいだが、思い切って尋ねてみた。 「あのー、ちょっと伺いたいんです。おネエさんたちの中で、自殺した...」と、ここまで言った時、彼女の顔が僅かに強張った。

私は、慌てて名刺を差し出しながら、言葉を継いだ。

「モノカキで...、ちょっと、お話を...」

彼女は名刺に目を落とすと、しっとりと言った。

「自殺したサクラちゃんとは、私が浅草でお店をやっていた頃、あの子は他の店で働いていて、お店へ飲みに来て知り合ったの。話してみると、お互い出身が長崎で、それがきっかけ、もう二十年前の話よ。それからサクラちゃんは、浅草のゲイバーに移って来て、そう二十の頃ね。そのあと、あの子は渋谷の道玄坂で、今ココでやってたみたいなことをやるようになって、それで、流れ流れて上野へ来たわけ。そこにあたしがいたってわけよね」

そう言うと、彼女は煙草に火をつけた。

「最近でもサクラちゃんの他に、マコちゃんが亡くなる、マチ子ちゃんも亡くなったでしょ。今、上野には、私たちみたいの三人しかいないの。サクラちゃんが、マンションから飛び降りたなんて、ショックだったわよねェ...。自殺の原因? ノイローゼ? もうこんな時代だからね。どうしようもないもの。四十八歳、若いのに可哀想にって、気持ちよね...」

そう言うと彼女は、煙草の火を消した。そして、静かに微笑むと言った。

「あたしはミミ。今度は、私のこと聞いて下さいね」

 

シスターボーイ、バーの女将、たちんぼ

 

ミミさん、七十三歳(取材当時)。四人姉弟、三人の姉の中で育った。女ばかりの家族、姉の化粧品をつけて遊んだ幼少期。中学校では当り前のように同級生の男子を好きになった。当時は、ゲイという言葉も知らず、都会に出て始めて知った。あの頃は丸山明宏(現・美輪明宏)の時代、シスターボーイという名が喧伝され、その後、ゲイボーイ、ニューハーフと変遷した。中学卒業、家出同然で大阪へ、レストランで働いていた時、シスターボーイの募集広告を見て応募、見事合格、十七歳だった。シスターボーイは、バーテンであり、ウエイターであり、ホステスだという。華やかな世界でパラダイスだった。大阪に三年、名古屋に半年、そして憧れの東京へ。新宿区役所通りの店で一年余り、店はいつも満員で芸能人も多かった。東京の店は給料がなく、チップとドリンク代を稼いで生計をたてた。そして毎日、五百円づつ貯金、二十三歳で浅草に『桜』を開店。カウンターだけの小さな店だったが繁盛し、守屋浩、佐川満男、飯田久彦などの芸能人も出入りした。また、83年、京王プラザホテルから飛び降り自殺した沖雅也が、バーテンとして働いていたこともあった。

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60年代から80年代、ミミさんは時折出掛けた上野の街で、男娼たちとクロスした。

「いっぱいいたのよ、三十人位いたかしら、皆着飾って、西郷さんの下の階段にズラーッと並んで踊ったりハネたりしてたわ。それを、男の人たちが選んで、公園の中へ行くわけ...」

しかし数年後、自らが男娼として上野に立つとは思ってもいなかった。ミミさんもまた、バブルに翻弄され、店は地上げにあい廃業。そしてバブルの崩壊と共に上野の街も下降する。それでも、ミミさんは健気に生きようとする。

「お客さんで嫌いな人、それはいないわ、お客さんである以上は...。イヤなら行かなければイイの。嫌いな人にお金貰って、それは相手に失礼よ。今は、お金が貰えるからって感覚? お金で繋がっているだけよね」

 

みんなそこで死んでいくのよォ

 

2006年、突然ミミさんが上野から消えた。人伝てに聞けば、浅草に再び店をだしたという。店は浅草六区裏通り、場外馬券場の客や馴染客もでき、賑わいを見せて三年が過ぎようとしていた。しかし、足にアクシデント。ミミさんは、数ヶ月の療養生活を余儀なくされ、店を閉じなくてはならなかった。

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写真)冨成 鉄

人生流転。 2011年7月、酷い熱さが続く、夜になっても風は動かない。資料館脇にミミさんがいた。私は軽い挨拶をすると、畳み掛けるように問いかけていた。ミミさんは柔らかな物腰で答えてくれる。と、それは不意だった。ミミさんが感慨深気な表情で言葉を漏らした。

「そう、上野に立って何年になるかしら。上野も変わったけど、震災の後から特に不景気になって、お茶を挽くなんて当り前。親に反対されてもね、こういう道に入ったわけだけど、今になると自分の考え方を後悔してるわ。若い時は好きなことして生きて行こうとね、でも歳をとってくるとそうはいかないでしょ。そう考えると、あー、自分の考えは甘かったなァ...て感じる。今更って思うけど、足が悪くならなければ、居酒屋も順調だったの。でもね、今はこれしかないから。天職かしらねェ、もうお金じゃなく楽しみのひとつ? そう、それしかないのよォ。こういう社会に入った人は皆同じ、そこで死んで行くのよォ。でも、失敗したとは思うけど、好きなこともやってきた。そこだけが取得なのよ。そう、自分の思い通り生きてきた。その証が、これだったっていうね。だから、この人生しかないのよ、結局はね...」

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写真)冨成 鉄

瞬間、私の心に激しい焦燥が過った。その焦燥は己に対する嫌悪感でもあった。オマエは、その安全な場所に立って、いつまで"取材"を続けようとするのかと...。


取材・文◎高部雨市(ノンフィクションライター)

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