今や「巻き戻し」や「ダビング」などといった言葉は死語となってしまったが、昭和末期の文化を作ったのはなんといってもビデオデッキであろう。予定が合わずに見られなかったテレビ番組を後で見ることができることに加え、何しろエロい動画を自宅でこっそりと見られるようになったのだから。
今でも自分が突然死した場合、PCにダウンロードしたエロ動画やエロサイトの履歴をどう処理するかというのは世の男性諸兄にとっては切実なる問題であろう。新たなるハードの普及にはエロこそ必要、というのはVHSの普及により一つの定説となり、以後ホモサピエンスにとっての真理となっていった。
ここではあくまでも「ビデオ」「ビデオデッキ」と呼ぶ。私が初めてビデオに接したのは1985年(昭和60年)。ソニーによるビデオテープの規格であるベータの発売は1975年で、ビクターによるVHSの発売は1976年。1985年よりも前に多くの家庭ではビデオは普及していたが、なぜ私がここまで遅くにビデオに触れたかといえば、我が家は「テレビ禁止」だったからである。目が悪くなるから、という理由で親から禁止されていたのだが、結局視力はいつしか0.1になった。
1985年、東京都立川市立立川第八小学校6年生の男ども約10人は、とある悪だくみをしていた。仲間の一人が父親が所有する無修正エロビデオを発見し、これを皆で鑑賞しよう、ということになったのである。共働き家庭のA君の家に集まる日程を決め、我々は放課後を迎えた。一旦皆家に帰りランドセルを置いてから各人が自転車に乗りA君の家へ。
A君の家に集まったが、何やら背徳感があったのだろう。我々は一旦A君が住む団地の棟の庭の芝生へ行き、「元気に走り回ってる小学生」を演じることにした。この様子を団地住民に見せておけば、何かがあった時も「エロビデオを見るために集まっていた」ということではなく、健全な遊びをしていたことにできる、と考えたのである。
しかも、この時は課外授業で劇団四季のミュージカル『ガンバの大冒険』を観に行った直後で、舞台で歌われた歌詞である「ゆこうよ、仲間たち!」に始まる歌を皆で歌いながら約60メートルほどの庭を何往復もした。10人が大音量で元気な歌を歌いながら走り回っているのだから、多くの人が我々が健康的な遊びをしていると理解したことだろう。しばらくこの隠蔽・偽装工作をした後、ついにA君の家に戻った。
カーテンを閉め、部屋を真っ暗にしてからVHSをビデオデッキに入れる。そこでいきなり出てきたのは、天狗のお面から突き出る鼻を弄び悶える女だった。皆一斉に生唾をゴクリと飲み、先ほどまでのじゃれあったりバカ話をする空気は一変。一言も発することなく真剣に画面を見続けた。その後、絡みのシーンなども登場するのだが、恐らく全員の下半身は怒張していたことだろう。しかしながら人前で何をすることもなく蛇の生殺しのごとき状況で我々はこのビデオ全編を見続けたのだった。その間誰も何も言わなかった。
終わったところでようやく皆「ホーッ」とため息をつき、「喋ってはいけない」という駆け引きがここでようやく終了。そこでようやくビデオの感想を述べ合うのだが、「たいしたことなかったな」などと強がりを見せるのであった。
続いては『くりいむれもん』というエロアニメを見始めたが、こちらは先ほどの無修正動画と比べたら刺激は少なく我々はカーテンを開け、「ヘッ、こんなもんか」などと言い合いながら見続けたのであった。今「くりいむれもん」と検索すると「くりぃむれもん」という風俗店が出てくるが、ここで「い」が「ぃ」になっているのはお笑いコンビ・くりぃむしちゅーの影響かもしれない。
ビデオデッキとの出会いはこれが最初のことだったが、その2年後に渡米し、我が家は「英語が学べる」という理由でようやくテレビが解禁されMTVで流れるPVやHBOやCinemaxといった有料映画チャンネルの映画を録画し、その数は膨大なものとなっていった。
私が会った中でもっとも超人なC君の能力
ここからは昭和の話ではなくなり恐縮だが、私は1993年(平成5年)に大学に入ったが、とある秋の夜、国分寺の駅前に住むB君の家にクラスメイト3人で行き、エロビデオを鑑賞する会を行った。この時は1985年のあの時とは異なり、皆、「バカじゃねぇの」「アホか」などとツッコミを入れながらその動画を観ていた。
登場人物は若夫婦と、この2人と同居する夫の父親である。ある時、夫婦が愛を確かめ合っている時に父親が帰ってきてその場面に出くわしてしまう。父親はこれにショックを受け、なぜか急性EDになってしまう。父親は「ワシがこんな状態になってしまったのはお前らのせいじゃ。記憶喪失から治るには同じ衝撃を与えれば治るというが、ワシの急性EDを治すには同じ衝撃を受けなくてはいけない。あの時の様子を貴様らはワシの前で再現しろ」と命令する。
二人は全裸になり、父親の前で三つ指を突いて正座をしながら「これから始めさせていただきます」と言い、同様の行為を開始。しばらくその様子を見続けていた父親は突如として「おぉぉ!! ワシのが復活しおった! ワシも参加するぞ!」と言い、突如として3人での行為が開始してしまうのである。
このビデオを観終わった後、酒でも飲みに行こうかと言っていたのだが、C君は「オレは帰るよ」と言った。理由を聞くと「オレはこの残像を基に夢を見て、そして異次元へいくことができるんだ。今晩は間違いなく来る。この記憶が鮮明なうちに家に帰って寝てしまえばそうなるからオレは今日は飲まない」とのこと。
翌日結果を聞いてみたら本懐は遂げられたとのことだ。一応誰でも見られるネットの文章のため、色々と表現には気を遣ったが、読者諸兄もC君同様イマジネーションを働かせ、文脈を読んでいただければ幸いである。(文◎中川淳一郎 連載『俺の昭和史』)
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