死ななくてはならない現実
座間事件をきっかけに、SNSでの自殺や自傷行為についての投稿を規制する動きが話題になっています。
わたしは10代の終わりから、新宿ロフトプラスワンなどで開催している心身障害者パフォーマンス集団に所属して活動をしてきました。アルコール依存症、ひきこもり、摂食障害、ネグレクト、不登校、リストカットなどを経験した者が集まり、「生きづらい人間集結!」を合言葉に、自分の過去の病気体験を話したり朗読やお笑いのパフォーマンスをする集団です。その後、「カウンター達の朗読会」という名前で、音楽と朗読とライブペイントのイベントを定期的に開催しています。たくさんの死にたいを共感しあうことで、生きる連鎖に変えていこうと願っています。
「死なないでほしい」と言うと、「生きる権利と同じように死ぬ権利もある!」と反論されることもあります。わたしは、死ぬ権利の話をしたいわけではないのです。「死なないでほしい / 自殺を止めたい」という思いはもちろんありますが、それよりも「死ななくてはいけないほどの状況 / 死んだほうが楽だと思うほどの状況」をなくしたいと願っています。そんな現実があることが我慢できないのです。これらは似ていますが、全く違うと思っています。
今すぐに死にたい人に、「死なないでほしい」と言ってもその人の心は動かないでしょう。むしろ「何も知らないくせに勝手なことを言うな」と怒りや悲しみを抱くかもしれません。かける言葉のない無力感をなんども体験しました。ですが、死にたくなるほど耐えられない理由が解決したとしたらどうでしょうか。
苦しみは"比較"では計れない
死にたくなる状況......たとえば人間関係、たとえば金銭問題、たとえば暴力。もっと具体的に言えば、給食の時間に自分の机だけ数センチはなされるいじめ、風邪で休むと「空気を読め」と罵られるパワハラ、育ててもらってるんだから感謝しろと洋服で隠れる場所を殴られる毎日、家族と縁が切れているシングルマザーが待ち続ける空きのない幼稚園・保育園、やっと決まった派遣先のグループラインでの完全無視、聞こえるように言われる悪口、介護のために辞めた仕事、決まらない再就職と底をつく直前の貯金残高。こういった、自分にいつふりかかるかもしれない「死んでしまいたいと思わざるをえない」状況です。
自殺をしてからやっと「死ぬ前に相談をすればよかったのに」なんて言うのは、やっぱり反則です。死ぬ前に相談をすると「他の人はもっと頑張っているんだから」と言うのはもっと反則です。現在進行形で死にたいほど苦しい状況にいる人に、恵まれない国のことや他人との比較をしても「じゃあ頑張ります」とは言わないはず。苦しみは比較するものではないからです。その人その人が持っている苦しみは、本人のもの。確実に存在している感情だからです。
職場や学校ではとても言えなかった「寝て起きたらまた1日がはじまる、死にたい」。そんなSNSの書き込みにもらった「分かるwww」「つらたん」の返信。あのとき、同じように死にたい気持ちで生きている人の存在にどれだけ安心をしたことか。顔も知らない誰かに「分かるわ」と言われたとき、解決はしませんが、少しだけ大丈夫になるような気がしたのです。
選択肢は削るよりも増やしてほしいと思っています。
死なないために、軽々しく"死にたい"と言える場所は必要なのではないでしょうか。
あなたが昔、裏アカウントで毎日「死にたい」とやりとりをしていたHNしか知らない人のひとりは、もしかしたら同じように裏アカウントで毎日死にたがっていたわたしかもしれません。
■成宮アイコ
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動によりたびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」刊行。
死なないために"死にたい"と言える場所が大切