江東区森下と川俣軍司 かつてドヤ街であったこの町で4人を殺し、人質をとって立て籠もった男

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森下に残るかつてドヤだった建物

「うちの目の前は立ち飲み屋、その二軒となりは食堂で、当時は昼間っから人通りも多くて賑わっていたね。今じゃどこの店もやってないけどさ。うちも昔は簡易宿泊所をやっていて、東北からの出稼ぎの人を泊めたもんだよ。この辺りはちょっと騒がしいところだったから、若い女の人は歩けるような場所じゃなかったよ」

 東京都江東区森下。かつて労働者向けのドヤが何軒も建ち並び、男臭かった町の面影を今では感じることはできない。私は町にある一軒のタバコ屋の女主人から当時の話を聞いていた。

かつてのドヤは、ホテルやマンションに代わり、町の中をベビーカーを押しながら若い主婦が歩くのは日常の景色となっている。今も数軒のドヤが残っているが、労働者の姿は無く、福祉と呼ばれる生活保護受給者たちが暮らしている。

「川俣軍司ね。ここはお世辞にもきれいな町じゃなかったけど、まさかあんなことが起こるなんて思いもしなかったよ。朝から晩まで大騒ぎでね。あの男が泊まった宿はもうマンションになっちゃっているから。もう何も残ってないよ」

 今から37年前の昭和56年6月17日の白昼。すし職人など様々な職を転々としていた川俣軍司は、タバコハウスと呼ばれていたドヤを出て、前日受けたすし店の面接の結果を知るために新大橋通りにある電話ボックスに向かった。所持金は180円、荷物はカバン一つ、その中には魚を捌くはずの柳刃包丁が入っていた。

 すし店のマネジャーから「不採用」との結果が伝えられると、電話ボックスを出て、森下駅の方角へと向かって歩き出した。進行方向からは幼稚園児を連れベビーカーを押した若い主婦が歩いて来る。その刹那、軍司はカバンから柳刃包丁を取り出すと、三人に向かって襲いかかった。
 30秒ほどの間に女こどもばかりに刃を向け、四人を殺害、二人に重傷を負わせたうえに、33歳の主婦を人質にして中華料理屋「萬来」に立て籠った。

 中華料理店に立て籠もると、説得に当った捜査員に対して、「俺には電波がついている」などと訳のわからないことをぶつぶつと話し続けた。

 篭城から7時間後、突入した捜査員によって身柄を拘束された。事件発生当時から、下半身に何も身につけていなかった軍司は、中華料理屋から連れ出される際、口には猿轡をかまされ、白いブリーフを履かされたことから、人々に強烈な印象を残したのだった。

 逮捕後の検査で、尿からは覚醒剤の反応が出た。昭和四十年代半ばから増えはじめた覚醒剤は、暴力団や在日朝鮮人グループの資金源となり、労働者を中心に広く蔓延し、通り魔殺人が度々起きるなど、当時、深刻な社会問題となっていた。

 川俣軍司が覚醒剤に手を染めたのは、中学卒業後に東京のすし店で修行をするが挫折し、故郷に帰っていた時期のことだ。故郷である茨城県神栖市波崎町の実家から、車で30分ほどの場所にある銚子の歓楽街に入り浸り、知り合ったヤクザから買ったことがきっかけだった。

 覚醒剤の常用が事件の引き金の一端となったことは間違いない。ただそれ以前から、暴行事件などを繰り返しており、前科七犯であることから、本人の素養に問題があったことは言うまでもない。

 川俣軍司が身を寄せた森下のドヤ街跡から、立て籠もった中華料理店のあった通りに向かった。ちょうど、夕方の時間帯だったこともあり、幼稚園児を連れた母親とすれ違った。
 何気ない日常というものが、事件のあった通りを歩くと、極めて尊いものに思えてくれるのだった。(取材・文◎八木澤高明)