【未解決事件 File.2】赤報隊事件『私も犯人と疑われた』第二回(全二回)【消えた殺人者たち】

2018年02月03日 

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(※赤報隊ではないかとの疑いをかけられた筆者は、赤報隊の声明文に注目した)


「赤報隊」声明文の分析


以下、その部分に触れてみたい。「赤報隊」が誰であるのか、どのような意図について基づいて行動したのか、という人当てクイズのような話ではない。同じ心情を共有する身という立場から考えると、「私憤から公憤へ、公憤から義憤へ」という見解で見てみたいのだ。

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               告
われわれは日本人である。
日本にうまれ 日本にすみ 日本の自然風土を母とし
日本の伝統を父としてきた。
われわれの祖先は みなそうであった。
われわれも われわれの後輩もそうでなければならない。
ところが 戦後四十一年間 この日本が否定されつづけてきた。
占領軍政いらい 日本人が日本の文化伝統を破壊するという悪しき風潮が、世の隅隅にまでいきわたっている。
およそ人一人殺せば死刑となる。
まして日本民族全体を滅亡させようとする者にいかなる大罰を与えるべきか。極刑以外ない。
われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。
一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である。
これまで反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。
特に朝日は悪質である。
彼らを助ける者も同罪である。以後われわれの最後の一人が死ぬまでこの活動は続くであろう。
日本人のあるかぎり われわれは日本のどこにでもいる。
全国の同志は われわれの後に続き内外の反日分子を一掃せよ。

二千六百四十七年 一月二十四日
日本民族独立義勇軍 別動
赤報隊 一同

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この声明文は昭和62年1月24日、朝日新聞東京本社を「赤報隊」が散弾銃で襲撃したときに提出された文書である。なぜ朝日新聞を攻撃するのかを述べるとともに、その手段として散弾銃を発砲したことは、今後銃器を使用して攻撃をすることを公に表明するものだった。

「およそ人一人殺せば死刑となる。まして日本民族全体を滅亡させようとする者にいかなる大罰を与えるべきか。極刑以外ない。われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である」

と決意が並々ならないことを示している。有体に言うならば、威嚇や脅しではなく、朝日新聞社員を本気で殺しにいこうとしているのだ。これまで、朝日新聞社の論調に対し抗議の意味での脅迫状などが発せられ文書が送りつけられた事は結構あったはずだ。

また、同様な趣旨から放火されたり、ガラスを割られたり、回りを取り囲まれたりしたことはあったが、この域を超えることはなかった。しかし、それらの行動パターンとは違って「赤報隊」は単なる脅しの域に留まらず、実際に銃器を使用し、その後社員を殺害したのである。


とうとう最悪の事態に


昭和62年5月3日午後8時過ぎ、兵庫県西宮市にある朝日新聞社阪神支局内に目出し帽を被った実行者が押し入り、散弾銃を腰だめにして、そこに居合わせた小尻記者を狙うよう無言のまま二発発砲した。

被弾した小尻記者は数時間後に絶命し、近くに居合わせた犬飼記者は右手指を破損する重傷を負ったのである。これが俗に言われる「朝日新聞阪神支局襲撃事件」だ。この日は憲法記念日となっており、現行憲法の理念を擁護しようとする朝日新聞にとって、多少の緊張感を持っていなければならない日であった。

この事件が起きる3ヶ月半前に「思いつめた声明文」が送付されたのであり、銃器を使用しているのだからこそなおさらである。右翼団体は朝日新聞社と違って現行法を亡国の象徴として改正の対象として主張を行っている。また行動してきた。
当然、この日も宣伝カーを使った抗議行動からさまざまな形態の行動がとられることは予想されていた。「赤報隊」からの事前警告を真剣に受け止めていたならば、小尻記者らの死傷もなかったかも知れない。

それはあくまでも「赤報隊」が朝日新聞社の論調に対し、憤りを持っていることであり、小尻記者らはその巻き添えを食ったといってもいいのである。「赤報隊」の狙いが「小尻記者個人に向けられているのではないか」という憶測も流れていたが、そのようなことは「ない」のではないかと思える。

ただ、朝日新聞社側も一連の「赤報隊」事件が起きるまでは、各支局のガードはあまりしておらず、誰でも気安く訪問でくるような開放的な姿勢であったのであろう。一通の声明文が届けられたからといって、全国の支局に警戒を呼びかける通達文書を差し出すといった大げさなものでもなかった。これは無理からぬ話である。

だが、1月の時点で提出された「赤報隊」の声明文を軽く考え、また「嫌がせの脅しでもかけてきた」ぐらいにしか思わなかったことが、結果として惨事を招いたといってよい。しかし、「赤報隊」は声明文を黙殺されたことを恨んで記者を殺害するという単純な発想から朝日を攻撃しているわけではなく、冷静沈着に朝日新聞に論調の変更を求め、その実効性の事実に重みを持たせるため「処刑」をしているように思える。

たとえば「阪神支局襲撃事件」から4カ月半が経過し、今度は愛知県名古屋市にある朝日新聞社の社員寮が「赤報隊」から攻撃を受けた。目出し帽とカーキ色のアーミー服を着た実行者が寮に侵入し、居間兼食堂にあったテレビに向かって散弾一発を発砲した。もし、そこに誰かいたならば、必ず「処刑」行動の一環として撃たれていたに違いない。この行動を見ても十分に本気としての殺意が感じられるのである。

また翌年の3月11日に起こされた朝日新聞静岡支局一階駐車場に仕掛けられた時限爆弾は、構造上手慣れた人物が作成したとは言い難く、素人っぽい時限爆弾であったらしいが、ここに出入りする朝日新聞社員を「処刑」することをやはり狙っていたようだ。

一方、捜査当局は3カ月からに半年周期で活発に繰り返される「赤報隊」の対朝日攻撃を封じる事が出来ず、半ば振り回される形で襲撃事件を許し、容疑者を検挙することが出来なかった。殺人の「阪神支局襲撃事件」と、爆弾の「静岡支局爆弾事件」以外の「赤報隊」の事件は時効が確定してしまっている状態なのだ。

捜査当局もこの十数年間、「赤報隊」事件を「警察庁一一六号事件」として最重要課題に掲げ、何としても容疑者の検挙を目指している。これまで述べ何十万回とも言われるほど、全国の右翼関係者を対象に聞き込み捜査を行った。さらに、「赤報隊」の声明文に使用されたワープロ、散弾銃などの物証をかなり念入りに捜査した。それでも容疑者は一向に特定されず、「赤報隊」の実態をまったく解明出来なかったのだ。「警察庁指定一一六号事件」だけあって、潤沢な捜査予算が組まれていたが、そのほとんどが無駄となってしまった。

しかし、「赤報隊事件」の全てが時効になるまでは、形式上であれ捜査を続行していかなければならない。容疑者の目星がつこうとつくまいと、捜査陣の解消はないのである。したがって、多少なりとも捜査を継続しているフリをしなければならないのだ。

その意味かどうかは別として、ちょうど「阪神支局銃撃事件」が発生してから10年目に捜査当局は、「赤報隊」に何らかの関わりを持つのではないかという「新右翼関係者を全国で10人に絞った」と発表した。どうも、いまごろになっても、懸命な捜査が続けられていることをアピールしたかのようである。


事件「当事者」として警察にマークされて


「完璧に捜査当局は手詰まりの状態にありますね。右翼関係者からは同じことを何回も聞き、新しい情報はとれていないようです。動機の部分がまったく分からず仕舞では事件の解明など夢のまた夢といったところではないでしょうか」(大手新聞記者)。

こんな状態になっていたようだ。ただ、捜査当局が全国で10人に絞ったなかには、どうも私の名前も入っているといわれている。鈴木邦男一水会代表(当時)も入っているという。光栄といっていいのか何か分からないが、私は「赤報隊」に関してあまり発言してこなかった。
たしか、ずいぶん前の「噂の真相」(現在休刊)のインタビューや「謀略としての朝日と新聞襲撃事件」(SR出版会)などに限られている。

したがって、どのような意味で全国の10人のメンバーのなかにノミネートされたのか基準を聞きたいものである。そうは言っても「赤報隊」事件の当初より、尾行、追跡を受けているわけであるから、「当事者」扱いを受けていればノミネートされるのも頷けるところだ。

多分、私が「当事者」扱いを受ける理由なども、日々の言動やいままで展開してきた行動の数々によって決定づけられているのではないか。捜査当局は、
「右翼事犯に関しては未解決があってはならない」
を旨として、右翼を視察してきた。いわば右翼が何らかの行動を起こす前に未然に防いでいくことが、取り締まりの基本であった。全国の右翼団体を視察している公安警察の仕事は、情報収集と事犯の未然防止である。あくまでも、それが基本である。
この限りにおいては右翼事犯で時効などあってはならないのだ。戦後、数多くの右翼が惹起した事件はあるが、「日本民族独立義勇軍」が起こしたとされる事件はすべて時効となった。これはいままでの公安警察の対応から見たらあからさまな敗北といえる。
右翼担当の公安警察の面目は丸つぶれではないか。それだけ「日本民族独立義勇軍」が行った行動は、反権力性を持っており、時効に至らしめられたことが結果として「赤報隊」を招来させたと言えなくもないのである。

逆に言うなら、捜査当局が、もし早めに「日本民族独立義勇軍」を解明し、容疑者を検挙していたならば、「赤報隊」事件は存在しなかったことになる。「日本独立民族義勇軍」が起こした行動によって、私たちの一水会・統一戦線義勇軍は何百回となく、捜査当局から家宅捜査を受けた。押収品も住所録、機関紙、組織ネットワーク図など多くを持っていかれたが当局は全く「日本民族独立義勇軍」の一端にも触れることが出来なかった。

これはまさに捜査当局の大失態であり、馴れ合いの構造で関係を保ってきた右翼と当局の姿勢を一変させる「維新革命」的な側面を提供したのかも知れない。しかも、当局との闘いは自らを鍛えるたるの予行演習に過ぎない。昔から言われたことだが、「弾圧のない運動は腐る」のである。

その勝利の自信から「反日分子には極刑あるのみである。われわれは最後までの一人が死ぬまで処刑行動を続ける」と、「赤報隊」に声明文で謳わせることになってしまったのではないか。


犠牲者に合掌


正直なところ「赤報隊」が「日本民族独立義勇軍」から分化して組織を作ったのかどうかは真相は分からない。ここでは私の推理をずっと書いてきたが、これはあくまでも仮説であって一つの可能性を追及してみただけである。まったく別の結果が出るかも知れないのだ。宗教団体の線も消えていないと言われていたし、五里霧中なのである。しかし、私は「赤報隊事件」発生当初から捜査当局によって「当事者扱い」を受けてきた。このことだけは紛れもない事実だ。

あの事件から数十年経ったが、果たして「最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」のだろうか。それともこのまま静かな沈黙が続くのだろうか。いずれにせよ、昭和62年5月3日には一人の若き有望な記者の生命が絶たれた。ご遺族にとっては悲痛であり、「赤報隊」なるものを絶対に許せないはずだ。
だがしかし、記者は朝日新聞社に勤めている以上、善きにつけ悪しきにつけ、その論理を背負う役目を担っているといわなければならない。そうである限り、常に反対者の批判にさらされることを覚悟しておかなければならない。通常は言論による批判である。これがルールだ。

しかし、極端な行動をとるものだって存在する。事前警告があったにせよ、ないにせよ、朝日の論調に対しては、日本を亡国化に導いていく元凶である認識している人物たちはいる。そのなかにあって「赤報隊」は政治的な意味から社員の「処刑」を言い渡し、本気で実行に移したのであろう。

これは「赤報隊」側から見れば、一種の「戦争」であった。

勝手な戦争の吹っかけ方だろう。しかし朝日に敵意を持つものがいる以上、朝日新聞の記者として「赤報隊」と遭遇してしまったことが不運であったのだ。悔やんでも悔やみ切れないかも知れないが、一種の戦死と考えるべきではないか。これも「赤報隊」とは関係のない私の見解から勝手に推理し、述べているのである。最後になったが、ここに小尻記者に対し哀悼の意を表したいと思う。
合掌。


文◎木村三浩一水会代表 (「消えた殺人者たち」[ワニマガジン社]より再録・加筆、文中敬称略)

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