善光寺に落書きをした人は、「畏れ」というものを知らないのだろう。二重の意味で愚かである。
まず国宝に傷をつける、落書きをするという自体、魔が差したのか。子供のころ親から「これ触っちゃダメ」というものにかえって興味がわき、いじってしまう子がいる。忌避に対する畏れでなく、汚してやりたいという欲求なのだと思う。それが今回は対象が国宝なのだから、余計に達成感が沸いたのであろう。子供なら親が叱ってくれるが、今回の容疑者は防犯カメラ通りでいくと大人の女性である。
従って容疑者の心理を推測するに、
①子供心のままいたずらしたのか。
②あるいはむしゃくしゃしてやったのか。
①と②を合わさった心理かも知れない。
今回たまたま、国宝の善光寺だからニュースになったが、近所の寺社を巡ってみるとよい。道にあるお地蔵さんでもよい。神聖な石像がかなりイタズラされている事に気づくだろう。
日本の石像信仰を批判しているのではなく、これは先人たちへの冒涜になるのでは、という一般的な意識が欠けているのではないかという警告だ。
人形やおもちゃを壊すという行為はやんちゃな子供なら、よくある事だ。しかしそれが神社仏閣にある、神聖とされている(例え自分にでなく他者にとってでも)石像に対して行う事は、「畏れ」の感覚が欠如していると言えよう。端的に想像力の欠如である。想像力の欠如は今後社会生活を送るうえで、非常にヤバイ。
ネット上でも、罵詈雑言を浴びせる人がいるがこれは、言葉をナメている証左だ。言葉がそのまま自分に返ってくるのではないかという想像力が欠如している。結果、マナーがわ分からなくなる。
今回の善光寺の落書きやその他、神社仏閣へのイタズラ、すなわち人が大事にしているものへの土足で上がる行為は、人間の美徳である想像力が欠如しているのではと危惧するものである。(藤本ただし)