3月11日を福島第一原発の中で迎えた人たちの当時の思いを振り返る

2018年03月11日 放射線 東京電力 東日本大震災 福島第一原発

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 毎年、3月11日になると思いだしたように「東日本大震災特集」をやるマスコミについて、「本当に『思い出したように』放送しているだろ」「普段から報道しろ」という批判があるのを知っていますが、やはり記しておきたいと思います。

 2011年夏。僕は常磐線いわき駅にいました。夕方なのに汗が流れてはポロシャツを濡らしていたのを覚えています。人を待っていました。福島県双葉郡に生まれ、そのまま地元の福島第一原発に作業員として働き、3月11日の午後2時46分を建屋の中で迎えた人たちと待ち合わせをしていました。

 詳しくは拙著「原発アウトロー青春白書」をお読み頂くとして(いわき駅を降りてラトブという駅ビルの中にあるいわき市立図書館に拙著が入っています。因みに福島は食事が美味しい所ですがラトブの地下一階の「おのざき」という回転寿司屋はおススメです)、彼らはいったんは、地元を捨てて避難します。「飛行機が堕ちて来ても壊れない」と教えられてきた、福島第一原発がこうもあっさり爆発を起こす事に脅威を感じます。また放射線に対する恐怖もありました。

 いったんは福島を離れ一週間ばかり車で新潟などに行ったりしますが、先輩に「俺たちが今まで働いてきた原発だべ」と諭され、また放射線があふれている原発の中に入って廃炉作業をします。

「パニック映画ってあるでしょ。揺れはあんな感じです。ああ。これで俺は死ぬんだなって思いました」。まだ20代前半の作業員は3月11日の時の事をそう、言いました。彼も地元双葉郡で生まれています。

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 ある公人が福島第一原発事故で、「一次被害はなかった」と言っていました。だから原発は推進した方がよいという事を言いたかったのでしょう。が、その後、作業員が熱中症で亡くなったり避難された方が自死なさったり、また「こうやって俺は死ぬんだな」と語った青年作業員の祖父も避難所で亡くなりました。彼曰く「ストレスで亡くなったんだと思いますよ」と言っていました。数年後の話ですが。

 一次被害がなかったからまだ良かったというのもそもそも大間違いで、一歩間違っていたら亡くなっていた方もいました。避難せずに1F(第一原発)に残って復旧作業をしていた人達です。詳しくは、取材ノートを精査して、本サイトで掲載しますが三号機爆発の際、バスで移動していた人たちがたまたま、バスから降りて建屋に向かう途中、爆発が起き、その破片がバスに突き刺さり、間一髪で惨事を逃れています。バスにいなかったのは、まったくの偶然でした。つまり第一次被害は起こっていたかも知れないのです。そのような事を調べないで「第一次被害はなかった」とやすやすと言ってのける福島出身のその公人にはあきれました。

 福島第一原発の事故後、作業員である彼らの故郷を車で回りました。事故後、二ねんくらい経ってから自宅にも行きました。ラジオの音を大音量で流していました。「誰かがいると思わせて盗難を防ぐため」だそうです。

 車で案内をしてもらっていると、「普段は何でもない信号や神社が俺たちの街なのに住めなくなってしまうんだと泣けてきますね」と普段は強気な作業員の青年がつぶやきました。

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 彼らとは、打ち解けるのに時間を要しました。何回もいわきに行き、時には仙台で飲み、泥酔しながらも頭はなぜかハッキリしながら話をひたすら聞きました。「でも久田さんの電気は俺らが作ってんだべ」。僕が「このような事故が起きて、放射線で街が住めなくなるような原発は止めた方がよい」と言うとこういう反論が返ってきました。何も言えませんでした。帰りの常磐線ではいつも疲労困憊していました。精神的にです。

 それでもまだ、彼らとは飲みます。同じ日本人だから。同じ人間だからです。

 東京では反原発運動が起きていました。あるミュージシャンの「金に転んだ双葉町のやつら」という歌詞に震えるほど怒りを覚えましたし、それに賛同する人にも僕はそこまで言うなら双葉郡に行って彼らの前でコンサートを開いてみろよ、と言いたかったです。出来ないなら言うな、言うならコンサートやってみてください、ということです。

 その頃彼ら、金に転んだ彼らは「久田さんたち」の電気を作る為にいや廃炉にする為に、原発の中に入り、タイベックを着て汗みどろになりながら作業をしていました。その彼らに「金に転んで、故郷を捨てた奴ら」という歌を聞かせられますか? これは原発推進、反原発抜きにして、「人として」です。

また廃炉作業がいつ続くとも分からない中、収束宣言を出した当時の民主党政権野田首相にも唖然としました。一回、原発に来れば全く、収束していない事がわかりますし、現に2018年現在も廃炉作業が続いています。

 作業員が僕の家に泊まりに来たことがあります。歌舞伎町で飲んだ後でした。LINEではやり取りをしていまして「原発の桜」と題した桜の写真を送ってくれました。「原発にも桜は咲くんですね」というようなメッセージが添えてあったと思います。

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 今は、福島に戻った作業員もいたり、仙台市に移住した作業員、また原発から出て別な職業に就いた作業員もいます。今年も彼らは東京に来るので飲む約束をしています。「やっぱり僕は原発は反対だ」。そんな話も彼らにまたする事でしょう。

 そして、3月11日から1Fに留まり、余震が起きる中、必死に復旧作業をしていた人の話がようやく、被取材者から公にして良いとの返事をもらったので話をまとめようと思います。前述した、第一次被害を間一髪免れた人です。

 あの時、何が起きたのか――は様々な書物や報道によって明らかにされてきています。この人の話も福島第一原発の真実の一片となり得るよう、まとめたいと思います。事故がないように、また健康でいられるように祈りながら。(文・写真◎久田将義)

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